世界に影響を与えた福音書を遺した使徒ペテロは、もとはただの漁師であり、決して始めから立派な奉仕をしていたわけではなく、色々な失敗をしました。イエス様を3度知らないと言いましたが、赦され用いられてきました。水の上も歩きましたが、途中で沈んでしまいました。そんなペテロが後に「完全な、不動な者(Ⅰペテロ5・10)」となりました。
ここから私達が知らなければならないことは、神様がすべてを満たしてくださるということです。
「それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。『いいえ。何もありませんでした』(ルカ22・35)」
行くところどこでも私達の神様は、備えてくださる神様です。イスラエルの民がエジプトからカナンの地に行くまで40年かかりましたが、「四十年の間、あなたは彼らを荒野で養われたので、彼らは何も不足することなく、彼らの着物もすり切れず、足もはれませんでした(ネヘミヤ9:21)」とあります。40年間ずっと着物を着ていてもすり切れず、何も不足することがなかったということです。
お金や自分の能力の足りなさ、日本の国に足りないもの、周りの環境を見るときに、「足りない」と思う事がいろいろあるかもしれませんが、イスラエルの民は荒野を歩いて行く中で何も不足しませんでした。
「また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです(Ⅰコリント1・28)。」
殊更に「劣っている」と思っている人が神に用いられ、変えられていきます。こんなに能力もなく、才能もない者が救われて何をしたらよいのか…と思われたことがある方もあると思いますが、私がクリスチャンになったときは、この箇所を読んで喜びました。私の場合は神様の声を聞いて「牧師になろうと決意した」というよりも「決意させられた」という感触の方が強いと思います。「こんなに足りない者に何ができるのか」と思いました。
ペテロは大学を出たわけでもなく、学者でもなく、聖書に精通しているわけでもなく、ただの漁師でした。字が読めたかどうかもわかりません。神は取るに足りない、見下されているものを神は選ばれます。
イエス様を知ってから、神が私を使って下さることを知りました。神が選ばれました。「何の能力もない」と思っている人は、神に選ばれているのです。「ある」ものを「ない」もののように、「ない」ものを「ある」もののようにしてくださいます(Ⅰコリント1・28)。劣等感の塊のような人は、神に選ばれる人です。それを知っていただきたいです。
ペテロも選ばれたのです。神が選んでくださいました。コリント人への手紙は誰が書いたのでしょうか。ペテロではなく、パウロです。ペテロは「ダメだった人が良くなった」というたとえで使われます。一方パウロはもともと律法に精通していて、熱心であって、どこも指さすところのないような人でしたが、その彼が「無に等しい者を選んだ」と言い ました。ペテロが言うならわかりますが、パウロがそのように語っているのです。
「 すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。王が物を書くその手の先を見たとき、王の顔色は変わり、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざはがたがた震えた。王は、大声で叫び、呪文師、カルデヤ人、星占いたちを連れて来させた。王はバビロンの知者たちに言った。『この文字を読み、その解き明かしを示す者にはだれでも、紫の衣を着せ、首に金の鎖をかけ、この国の第三の権力を持たせよう。』(ダニエル5・5~7)」
ベルシャツァル王は、神の器を使って宴会をしていました。その際に現れた文字はダニエルしか解き明かすことができませんでした。王様に対して言った文字は、
「その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということです(ダニエル5・25)。」
「メネ」: あなたが天に上げられる時を神は数えておられ、逆らうことはできません。どんなに永遠に生き、権力を保とうと思っても、神の赦しが無ければできません。
「テケル」:私たちはその事ができる目方があるか図られています。
「パルシン」:国が分かれていきます。
自分自身を神が量って下さる前から、「自分なんて何もできない」と思っている人がいると思いますが、神様はそのあなたを選ぶのです。この王様は自分で跡を継いだつもりで いましたが、神が量って「足らない」ということで落とされました。この王様は自分が権力者であり、できない事はないと思っていましたが、神の前から見ると、「目方が足りなかった」。
私がクリスチャンになる前は、始めから自分で神に量っていただく前から、「目方が足りない」と思っていました。人生を生きていくのに能力が足りず、結婚しても家族を養っていく能力もない。私の祖父がクリスチャンでしたが、なんで自分がクリスチャンなんだろうかと思うことがありました。世の中で教会に行っている人が少ないこと自体が、一つの重荷に思えました。
「神、主よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家にも、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ。これが人の定めでしょうか(Ⅱサムエル7・19)。」
同じ文章で、違う表現が書かれています。
「神よ。この私はあなたの御目には取るに足りない者でしたのに、あなたは、このしもべの家について、はるか先のことまで告げてくださいました。神、主よ。あなたは私を、高い者として見ておられます(Ⅰ歴代誌17・17)。」
後ろの方の文の違いを見てみましょう。「取るに足りない」と自分は思っていたのに、神様は「高い者」として見ていたのです。高ぶる者は落とされ、低くなる者は上げられる(マタイ23・12)という御言葉が聖書にありますが、先ほどの王様は自分で素晴らしい者だと言っていました。しかし、それは神に受け入れられませんでした。一方ダビデは取るに足りない者だと思っていましたが、神は「高い者」として見ていました。
ではなぜ取るに足りない者が高い者となれるのでしょうか。それは、イエス様の代価で買われ、自分の能力ではなくイエス様のお陰でこの恵みを受けているからです(続きはこちら)。
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徐起源(そう・きうぉん) :
恵那レーマミニストリーの代表、ERM聖書学校学長、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。
インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー公式サイト(http://www.ermbible.net/)。無牧の人の為に日曜日10:30から礼拝発信 http://ustre.am/gL5a ,著書「信仰の使い方をご存知ですか?(上)(下)」「あなたは神の義をいただいていることをご存知ですか?」
※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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