クリスチャンは国のためにいかにとりなすべきか?
後藤氏は最近の国政について「自分自身の生活の行く末が心配になる。年金がもらえるかどうかもわからず、平和憲法であったはずだが、もしかすると武力衝突もあるのではないかと考えさせられる。政治が安定していない」と述べ、クリスチャンが国のために祈るということの意味について「政治のためのとりなしの祈りがいろいろな場所で行われているが、『今の政治がこの様になっている』と言われるだけでは分かりにくい。どのような姿勢でクリスチャンは祈るべきなのだろうか」と問いかけた。
また国家権力について、「国家が植民地支配を始めるとき、たとえキリスト教国であっても、『イエス・キリストを信じている』というだけの理由でひとつの国家を高く上げてしまうのであれば、祈りも熱情も誤ったものになりかねない。日本も国家的に植民地支配を始めようとした時に、教会も『神の栄光ここに現れり』とそれを応援した事実もある。そうではなくイエスはどのように国家権力を見たのか。イエスの視点で考えなければならない。(そうでなければ、)いろいろなメディアによるプロパガンダや権力の勢いがあるが、それらが持っている力に踊らされながら国のためのとりなしをしてしまうことにもなりかねない」と注意を促した。
その上で「国のためのとりなしが『愛国心』から出ているのならば、イエスの心と愛国心がどのように一致するのかを問い直してみる必要がある。どのような角度で国家のために生きるべきかを問い直さなければならない。国、民族意識に関わることは、『信仰の周辺的などうでも良い問題』ということではない。権力の問題は信仰の核心に関わる大変重要なことである」と指摘した。
イエスが福音宣教をした時代について後藤氏は「イエスが宣教の始めに言ったことばは、『神の国』であった。イエスは神の国の主であり、統治者。神の国をイエスがもたらしたがゆえに、当時世界を支配していたローマ帝国から、イスラエルの解放を信じて熱心に信じていたパリサイ人たちから憎まれ、最終的には十字架につけられてしまった。ローマの支配下にあって、ローマと結託したサドカイ派の神殿祭司が人々の支配層として君臨していた。エルサレムの神殿のすぐそばに祭司だけが住むことができる居住地域があった。豪華絢爛、贅沢な区域で、広大な敷地を有していた。祭司は、歴史的な非常に重要な役割を担っていたにもかかわらず、同時に人々から搾取し、鞭打っていた存在でもあった。神殿はローマ帝国からの助成金があって立派なものとなり、ダビデの下で造られた神殿よりもっと豪華なものが造られた。ヘロデ王は、エルサレムに富を集中的に投下することで、人々の関心を買い、ローマの支配を安定させるために、エルサレムを経済的に潤し、一部の支配階級の人たちが思った通りにできるように環境を整えた。そんな時代にイエスが『悔い改めなさい。神の国が近づいた』と福音宣教を始められた」と説明した。
神の国は現実のこの世界に現れる―御国の体現のために私たちは生きている
後藤氏はルカの福音書4章18節~19節を引用して、神の国の主権とこの世界の支配者の権力の違いについて、「イエスは単なる王国の支配者として現れたのではなく、この世の権力を上から下にひっくりかえす、真の自由を告げるものであった。権力、ナショナリズムが人の心を煽り、他の人々を見下して戦争を誘因することがある。現実のこの世界に神の支配が現れるという、かなり過激な思想を神は持っておられる。なぜなら世界は神のものだから。天国、神の国というと『見えないもの』ということで片づけてしまいがちであるが、身体を持っている私たちの現実の生き方の中に神の国が打ち立てられ、御国を体現するためのイエスの弟子として生かされているということは非常に大きな意味があると思う。神のビジョンが、日本に、東京に現されるために私たちは生きている」と述べた。
同箇所では「貧しい人に福音を告げ知らせ、捕われている人に解放、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる」ことが書かれてある。後藤氏は、「ひとりでできることは限られているかもしれないが、教会がこのような意識をもって、社会にこういった声が反映されていけば、日本は変わっていくと思う」と伝えた。
主の祈りでも神の国の到来が祈られている。後藤氏は「『ローマ皇帝が神』と教えられている中にあって、神の国を守ろうとしつつ、偏狭なナショナリズムにイスラエル人が陥っているとき、イエスはそのどちらでもない生き方をして、多くの人を驚かせながら、神の御国をもたらした。十字架に架けられたが、復活をもって神の国が必ず打ち立てられることを約束された。私たちも弟子として、神の国の実現を、もっとも大事なビジョンとして掲げて、神の国の栄光が表れるようにとりなしていきたい」と述べた。
マルコ2章13~17節ではイスラエルの社会で嫌われ者であった取税人のレビがイエスの弟子とされ、すべての人を包み込むイエスの愛について書かれている。同箇所を引用して後藤氏は現代の日本社会の問題として、「『自分は仲間外れにされたくない』という形相が子供の遊びの中にあった。子供ながらに一生懸命に仲間外れにならないよう、一生懸命『鬼』にならないようにしている様子は、大人の社会にも見出せる原理だと思う。未だに『いじめ』という問題があるが、大人になってこれがなくなるわけでもない。社会の中で『内と外』に分けてしまうということがある。『外される』のは嫌だから、まず最初に人を外す側になってしまおうというのは、子供の社会の話ではなく、私たち大人の社会の話でもある」と指摘した。
イスラエル人であり取税人であったアルファイの子レビについて後藤氏は、「イスラエル人でありながら、ローマ帝国の支配を助けるための仕事をしていたので、『不浄の民』とされていた。そんな中でイスラエルのために働く彼はどんな思いだっただろうか」と問いかけた。
日本社会に根強く残る価値観として、「『内と外』を分ける文化がある。内政や外交にもそのような文化があり、敷かれたレールを歩かない人たちはだめだという価値観が根強く残っている」と指摘した。
「漏れ落ちる人」が多くなった日本社会
後藤氏は昭和から平成への変遷にあたって、「一億総中流の時代から、『漏れ落ちる人』の多い時代になった。平成になってからの日本社会の変化は非常に大きく、新自由主義政策によって、弱肉強食の風潮がもたらされ、漏れ落ちた人が外され落後者となってしまうという社会が勢いを持って出てくるようになった。新自由主義政策では、経済システム、市場における規制を撤廃して自由な市場を創出することで、自由な経済活動ができる商品として売買の対象となる領域が市場以外の社会のあらゆる分野へ拡張された。市場の規制がなくなると、資本が自由に動くため、税金の安いところに資本が出ていかないように、政府が税率を落とすようになった。税率を落とすとそれが人々の生活に跳ね返るようになり、公共サービスが市場に投げ出されるようになった。そういった政治政策が非常に大きく目立つようになった」と指摘した。
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