9月28日に大阪市長橋下徹氏によって設立された地域政党「大阪維新の会」を母体とした国政政党日本維新の会(代表:石原慎太郎氏)の掲げる政策、および設立者のである橋下氏の人格について、キリスト教の視点からさまざまな問題提起がなされた。
特に橋下氏の民主主義の感覚について「多数派の意見が正しい」と解釈する傾向があることに懸念が示された。
袴田氏は、橋下氏と石原氏の間でTPP問題、原発問題での意見の相違が見られるものの、「教育問題、基本的人権、民主主義、憲法改正の問題では彼らの見解は一致している。自民党安倍総裁も似通った考えを提示している。私達の信仰告白から国家や社会を見つめることが求められているのではないか」と問いかけた。
ウェストミンスター信仰告白から見る教会と国家の関わりとは?
なお教会が政治的な事柄に関与することについて袴田氏は、「改革派教会においては、教会が政治的な問題に関わることに関して、さまざまな意見がある。教会として、教会員の中で意見が分かれることには携わるべきではないということが、大会の議場で言われている。しかし『教会が政治に関わるべきではない、発言するべきではない』という意見は、信仰告白を読み違えているのではないか」と問いかけ、ウェストミンスター信仰告白23章を改めて提示した。
ウェストミンスター信仰告白は、カルヴァン主義神学の伝統のある改革派信仰に用いられる信仰告白であり、1646年に英ウェストミンスター会議で英国国教会のために作成された信仰告白となっている。世界的には改革派教会他長老派教会で全面的に信仰告白として用いられている。
袴田氏はウェストミンスター信仰告白23章を引用し、国家的為政者に対する教会の対応について、「改革派教会は宗教改革の伝統に立っている。(23章によると)国家的統治は、神の栄光と公共の益のために定められている。国家的統治の形態については、カルヴァン主義の伝統背景を持つウェストミンスター信仰告白ではほぼ沈黙されており、カルヴァンはどの統治形態が一番良いかについて、より望ましい統治形態を考えていたのではないか」と述べた。
ウェストミンスター信仰告白では、統治形態に関わらず、王権は神が建てられたものであり、人には服従の責任がある(ローマ書13章)としているが、服従義務の限界については、特に明記されておらず、キリスト者の(上に立てられた権力への)服従は無制限ではなく、ある限界があることが記されている。
23章第3節には、「国家的為政者は、御言葉と礼典の務めや、また天国の鍵の権能を自らのものとしてとってはならない」と記されてある。
袴田氏は、「宗教改革以降の歴史では、国家が強大化して教会の領域を侵すことが生じてきた。教会にはキリストから委ねられた独立した権能があって、国家はそれに介入できない。霊的な自立(スピリチュアルインデペンデンス)の歴史が日本の教会では希薄ではないか。(国家権力に対して)神学的確信をもって教会が戦うことはきわめて稀である」と述べた。
袴田氏は国家権力について、「歯止めがかけられなければ、必ず国民の内心の支配を試みるようになる。国家権力が良心の主になろうとする。信仰や、固有の教会の事柄にまで介入しようとする。教会の働きの基軸になるものは、教会の霊的自立である」と述べ、キリストが教会に委ねた責務に対して「霊的自立の意識をしっかり持つことが今日特に必要とされているのではないか。この意識が研ぎ澄まされなければならない」と呼び掛けた。
続いて地域政党として大阪経済の再生を目指す「大阪維新の会」代表の橋下氏が行ってきた政策の中に見える問題点について教育政策における競争主義・成果主義の促進、むき出しの保守主義、政治の教育への介入を挙げた。
橋下氏の教育政策について袴田氏は、「教育権を再び国家公権力が握ろうとしている。
日本のキリスト者の未来に関わる重要な問題であり、教師の士気、子供の発達に影響を与える」と懸念を述べた。
また維新の会や自民党などが主張する憲法改正問題について「基本的人権に対する感度が決定的に欠落している。憲法改正は非常に危険である」と述べ、憲法改正がなされることで基本的人権が侵害される方向へ向かうことへの懸念を示した。
ただ神のみが良心の主である
袴田氏は良心の主について、「ただ神のみが良心の主である。神は、御言葉に付加されるような人間の教説と戒めから自由にされた。(国家権力への)絶対的服従を要求することは良心の自由、理性の自由を破壊するものである」と述べた。
またキリスト者の持つ良心について「ただ神のみが良心の主である。良心が自らの主人になるのではない。良心は主をもつのであり、それが神である。良心が主人ではなく、(神の)しもべとしてはたらく必要がある」と説いた。
袴田氏は第一テモテの手紙4章1節~3節を引用し、神を主としない人間の良心について「良心は誤って機能することがある。まことの良心の自由にそむくものとなり得る。人間は御言葉に反するような教えであっても、良心によって服従してしまうことがある。良心というのはけっして無謬のものではない。『後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊との教えに心を奪われ、信仰から離れるようになります…』とある」と述べた。
その上で偽善者の存在について、「偽りを語る者たちは、『自分の良心』に焼き印を押されている者たちである」と述べ、神がお造りになられた良心であるにもかかわらず、『自分の良心』に焼き印を押して偽りを語る者は、「その知性も良心も汚れている(テトス1・15)。良心は汚れていたり、無感覚になったり、神への畏れを失うこともある」と注意を促した。
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