聖書は私たちに、事柄の本質を評価して対応することを求めている(ルカ12・54~57、エレミヤ1・11~19)。住田氏は、このような未曾有の大震災を経験した後の私たちキリスト者が、「何を見るのか?どのような価値観を社会に訴えていくのか?」を今真剣に考えなければならないときであると訴え、「東日本大震災による被害は、何が起きているのか類推ができず、なんとなしに不安に包まれています。現状の把握と緊急対策、支援とともにクリスチャンもさまざまなボランティア活動を行っていますが、改めて基本的な課題として『何を考え評価するのか』をキリスト者として落ち着いて考えていくことが必要ではないでしょうか」と述べた。
住田氏は、聖書に書かれた人と被造物の基本的な枠組みについて、「創世記1章で『初めに』と宣言されて、世界に時間軸が与えられました。現代社会では、(神様が与えられた)時間軸と空間軸の軸の捉え方がおかしくなっているのではないでしょうか。私たちは時間軸と空間軸の中で生かされていて、その最初の段階で光(エネルギー)が作られました。その後空気、水、土壌が創られ、人と被造物の存在基盤が出来上がりました。地球環境を見てみれば、そこには生態系が形成されており、生物が様々に関係し合って存在しています。人類だけではなく、世界には被造物全体が存在しており、その背景の上に文明や文化、政治が出来上がりました。その枠組みの中で地を耕すことが人類に命じられましたが、これは人の欲望のままに行うのではなく、神様の摂理のもとに行われるものでなければなりません」と説明した。
また地球の物質循環システムについて、「(本来)地球の中には『ごみ』がありません。しかし人類は循環できないものをどんどん作っています」と説明し、「東日本大震災で基本的に考えなければならない大枠は、『人に対する救助、救済、復興』が当然としても、これがすべてではなく、人類が『地を耕す』ことに適切であったのか、人に対する被害と共に、神に対してはどうなのか、被造物、環境に与えた被害はどう評価するかを考えて行かなければなりません。『(東日本大震災について)神様の御前でどう考えて行くのか』という視点について、もっともっとキリスト教界から言論が出てこなければならないのではないでしょうか?」と問いかけた。
震災後の支援活動として、人に対してはボランティア活動が活発になされているが、被造物全体に対する責任に対しては、疎かにされていることも指摘された。住田氏は、これからの社会において、「私たち人類がどう振る舞うべきか、これからどのように考え、ライフスタイルを変えていかなければならないかを提起していかなければなりません」と呼びかけた。
東日本大震災後の報道では、大地震・津波・原発制御不能による放射能被害について実際に見える部分とその原因となる部分の一部が報道されているだけで、もっと背後にある「見えない部分」で原因となる部分、基本的に原因となる構造・価値観について、人々の知らない部分について「クリスチャンがもっともっと言論を発していかなければならないのではないでしょうか。見なければいけない部分、知らなければいけない部分がほとんど議論されていないように感じます」と述べた。
社会問題の評価をするにおいて、キリスト者には『聖書』という明確な評価基準がある。住田氏は「聖書に基づいて東日本大震災の様々な出来事を評価することが私たちクリスチャンにはできるのではないでしょうか」と問いかけた。
聖書によると、そもそも人には神様によって「最適管理」が委ねられており、住田氏は「神様から最適管理することが求められている」ということを深刻に考えていかなければならないのではないかと述べた。神様は、時間・空間・エネルギーの限られた中に人と被造物(生態系)を置かれた。この地球では、物質が循環する仕組みと領域でもって豊かさが担保されていき、この中で人および被造物は生きることを楽しむことができる。20世紀という時代は、その中で人が活動するには限界があることに人類が気付いた時代であったことが説明された。
神様は地と被造物を神様の統治の下に基づいて、責任ある統治を人に委ねられた。地の管理の受託者となっている私たちは、地上にある資源を何でも勝手に使って良いのではなく、すべての管理が神様から委ねられている。それに対し、近代産業革命以後の社会では「地を支配する」という言葉をクリスチャンが濫用したことによる間違いが生じる様になったことが指摘された。
また現代社会問題において、「政治・経済・環境・文化の一番下の土台にあるのは『倫理』ですが、この部分が完全に崩れてしまっています。私たちクリスチャンはこの倫理について聖書の価値観に基づいて明確にもっていることを自覚しなければなりません」と述べた。
クリスチャンが持つ独特の倫理観として、「人類が神様によって似せて創られた存在であると同時に罪人であるという相反する性質を持っている存在」と見なすことが挙げられるという。そのため、リスク評価の観点で言えば、「人は必ず間違えるというのが物や技術を開発していく際の前提です。そうしますと、おのずと選択するべき部分が出てきます。人は必ず間違え、機械は必ず故障するのが大前提です。原子力発電は管理できず、ウランは限られた資源で循環できず、放射性廃棄物の処理は確立していません。『人が罪人である』という要素を考えると、これから行動するべきことが見えてくるのではないでしょうか?」と問いかけた。
人間が技術を管理する際、「まず第一に神様に対する責任があります。そして人に対する責任と、被造物に対する責任もあります。人に対して、被造物に与える影響について評価されて、責任が問われます。これは政府、東電、原子力村と言われるグループだけの責任ではありません」と述べた。
第1コリント10章31節には「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい」と書かれてある。一方で人類が神様から託された使命を失った人間は、著しい人間中心主義に陥り、弱肉強食、自己実現的な考え方に捉われてしまっており、「そのような考え方にクリスチャンも取り込まれてしまってはいないでしょうか?」と警告した。
聖書によると、人が生きる主な目的は、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」にある。一方で世の中ではこのような「人は何のために生きているのか」という本質的なことの議論がほとんど聞かれておらず、「生きるための手段」の部分ばかりに固執した議論がなされているのではないかと指摘した。また同時にこのような本質的な議論は「国や政府ができることでもありません」と述べた。
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