3月11日に東日本大震災という未曽有の危機を体験した日本にあって、多くの人々が「なぜ苦難を受けるのか」「このような大震災をどのように解釈すればよいのか」という衝撃と疑問、悲しみに包まれた。夏期公開講座は「なぜ苦難が存在するのか」「苦難の意味」「苦難を耐えさせる力」「苦難の証人たち」「見えないものに目を注いで」の5講義で構成され、歴史上の哲学者の思想や格言、また実際に大きな苦難を身に背負いながらもキリストを信じる信仰によって精神の自由を得たさまざまな証人たちの十字架の栄光のためにその生を捧げた人生が紹介された。
~苦難の意味とは~
人は自分の受けている苦難の意味がわからないときに精神的に辛い状態がもたらされる。哲学者ニーチェは「苦しみはそのものが問題なのではない。なんのために苦しむのかという絶叫にも似た問いに対して解答がないのが問題なのである」との格言を遺している。山形氏はラインホールド・ニーバーの祈り「神よ、変えることのできるものについてそれを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについてはそれを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵を与えたまえ」を紹介し、「いかに多くの場合、私たちは変えることのできるものを変えずに放置してきたことか。また、いかに多くの場合、私たちは変えることのできないものを変えようとして、空しい努力を繰り返してきたことか。いくたび、私たちは変えることのできない現実を受け入れられずに、絶望を味わってきたことか、そしてこの変えられるものと変えられないものとを見分ける知恵を得ることがいかに難しいことか」と問いかけた。
人間は他人の業績や肩書などで相手の価値を判断しがちであるが、大地震、大津波、原発事故という抗しがたい圧倒的な悲劇的現実に包まれた中にあって、人間の真価を決める基準は「態度価値(ビクトール・フランクル「死と愛」より)」にあるという。態度価値とは、悲劇的な現実、苦難に直面した際の、「変えられないものを受け入れる平静さ」であり、変えられないものに対してどんな態度をとるのかによってその人の人格の真価が評価されるという。
また苦難に出会うとき、私たちに必要なのは、「人生に対する問いの転回」であるという。すなわち「人生から何を私たちが期待できるか」ではなく、「人生が何を私達に期待しているか」という考え方に転回することにあることを、諸富祥彦氏の「むなしさの心理学」から引用し説明した。そしてこの「人生からの問い」を私たちキリスト者は「神からの問い」と言い換えることができるという。苦難に出会うとき、その経験を通して、神が何を私たちに期待しておられるかということこそが、私たちにとって、一番の問題なのであるという。
また山形氏は「痛みの意味」について、「痛みを知らない者は、他人の痛みをも知ることができない。痛みは、私たちが健康的な生活を、また生命を維持していく上で不可欠であるばかりではなく、人格形成の上でもきわめて重要なものである」とし、「無痛覚症」という生まれつき痛みを感じない病状について例を挙げた。一般に無痛覚症の患者は知能は正常であるものの、怒りっぽく、短気で自己中心的、冷淡であるという。そして痛みを感じないため、自分の体を簡単に痛めてしまうという。
またクリスチャン作家のC.S.ルイスが苦難は「神のメガホン」であると言及したことについて、「苦難こそ『あたりまえ』の世界を打ち破る神のメガホンであり、ここにおいて『人間の危機は神の機会』となる。この痛みのメガホンの激しい呼びかけを通して、多くの者は神の御声を聞き、より深いキリスト教体験へと導かれていった。苦難において、私たちは人間の限界を思い知らされる。苦難は、私たちがいかに弱く無力な存在であるかを明らかにし、私たちを神に頼り、祈るように導くのである」と説明した。
デンマークの実存哲学者キルケゴールは「新約のキリスト教とは受苦の真理である」と述べているが、実際多くの深刻な苦難を経験した人々から、苦難を通してこそ人間たり得る人の優しさや愛、謙遜、希望、祈りや深い御言葉の理解が得られるようになったことが証しされてきた。山形氏はハンセン氏病や四肢まひ、その他不治の病を通してキリストの愛や深い信仰と祈りに目覚めた人々の実例を紹介しながら、そのような多くの証を紹介した。
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