さらに心の傷をそのままにしておくことで、そのようなクリスチャンの女性に、「間違った男性」を引き寄せてしまいかねません。まだ独身のクリスチャン女性は、あなたを「神の娘」として尊敬することのできない男性を受け入れてはいけません。神様が与えたあなたの価値を減少させるようなことをしてはいけません。独身の方は神様の導きを待ってください。神様はあなたにベストなパートナーとの巡り合わせを人生のギリギリの時まで取っておくようなことを時々なさいます。
神様はあなたに憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせたいと願われており(イザヤ61・1~3)、そのために女性として生まれた正しいアイデンティティを与えようとされておられます。賛美の外套を着け、心から笑える人生がどんなに楽しいものであるかを知ってほしいと願われています。神様があなたに希望のご計画を携えておられるのですから、喜びの踊りをすることを覚えなければいけません。結婚することは、一時的な喜びですが、神様の中にある喜びは永遠の喜びになります。神様こそ『あなたの夫』であるべきです。
女性の生き方の多様性について
女性は男性に比べ、それぞれの女性がさまざまな生き方をし、そして置かれている「ステージ」の期間もその女性によって実にさまざまです。ある女性は早々と結婚して子どもを産み育てる一方、同じように結婚しても子どもを産むことができない女性も存在します。また、生涯独身を貫く女性も存在します。
どのような生き方をするにしても、それぞれに託された神様の使命があります。神様はエデンの園でアダムを園の管理人(husbandman)として造られました。本来エデンの園を管理するのは男性であるアダムの仕事でありましたが、女性であるイブも堕落して後アダムと同じく農作業の労働に従事することになったため「産みの苦しみ」をしなくてはならなくなりました。現代社会では男性の役割の一端を担っている女性も存在していますが、本来男性は女性より力強い肉体として造られており、たとえ病気になったとしても働き続けることができる一方、女性は病気になると心理的にも影響を与えるデリケートな身体の構造となっており、それゆえ男性に大切にされるために造られたという本来のアイデンティティを自覚することが必要です。エデンの園で神様がその目的に従って創造された男と女の在り方が、堕落した世の中では罪のために秩序が乱れてしまい、本来のようにはなっていないため、女性が様々な病・ストレス・疲労に見舞われる環境に置かれてしまっています。
そのため、まだ独身のクリスチャン女性は、まだクリスチャンとして救われていない男性とは結婚しないほうが良いです。なぜなら、救われていない男性は、女性が神様によって大切にされるべき存在であることを自覚できていないため、女性が苦労することになります。救われたからといって完全なクリスチャンとなるわけではありませんが、神様の御言葉を知る男性と知らない男性とでは結婚生活での秩序の回復に大きな隔たりがあります。
春に蒔いたものは、秋に収穫することになる
また女性の人生にはそれぞれの季節があり、若い「春」の時期に「人生の秋」に収穫すべき種を蒔き、それが良い種であろうと悪い種であろうと、熟年となった「秋」に収穫することになります。
春の時期に人生の艱難を経験するなら、そのような女性は「秋」の時期にはより強く、賢く生きることができるようになります。一方春の時期に悪い種を蒔いてしまうと、秋にそれを収穫しなければならなくなります。「春」の時期に既婚の男性と愛の関係を結ぶならば、「秋」の時期に、自分の夫となった男性が同じように若い女性と愛の関係を結ぶ状況へと自然と導いてしまうようになります。そのため春の時期に蒔く種が人生の成熟期である「秋」にどんな影響を及ぼすかをよく考えて種を蒔かなければならないのですが、時として若い女性は「春」の時期に蒔くべき種を間違って決断してしまうようなことがあります。また「春」の時期に良い種も悪い種も植えなければ、「秋」の収穫期に収穫するべきものが何もなくなってしまいます。
クリスチャン独身女性の「春」の時期にはさまざまなサタンの誘惑が襲ってきます。それを退けるためにも「神様が私の夫である」ことを自覚し、またデリケートな大切にされるべき身体として造られたことを自覚して男性と同等のパフォーマンスを発揮しようと自分に無理をせず、睡眠・休息を良く取り、何よりも神様にすべての信頼を置くことが大切です。また世の中の常識やまわりに捉われてしまうと、年を取るにつれ「自分が結婚できていない」ことに気を取られてしまいがちになりますが、このように生活することは貴重な人生の時間を浪費することになってしまいます。クリスチャン女性のアイデンティティは神様の中にあり、独身でいられる季節は一度終わると二度と戻って来ないことを自覚し、「夫としての神」と共に大切に過ごすべきです。
夫とボーイフレンドの違い
クリスチャンの結婚は神様の御前で契約を結び、夫を通して妻を神様の造られた創造物の王冠として大切にし、神の愛を夫を通して表していくという責任を夫が負うからこそ、妻が夫に尽くすようになります。一方、結婚していないただのボーイフレンドの存在であれば、状況は全く異なります。神様の御前で契約を結んでいないため、ボーイフレンドには女性を守る責任がありません。そのためボーイフレンドに対して夫に尽くすように接する必要は全くありません。そうであるにもかかわらず、ボーイフレンドと肉体関係を結ぶことまでも許してしまえば、ボーイフレンドが自分を遊女のように利用することを許してしまうことになってしまいます。夫は妻と永遠の結婚の契約を結んでいるからこそ家庭を作ることができるのですが、ボーイフレンドは相手に対してそのような契約による責任を負っておりません。夫でもない男性と肉体関係をもつことは、その男性の人生において相手に対する責任なしに異性との肉体関係をもつことを許してしまうことになり、秩序の乱れ=罪が広まるようになってしまいます。そのため交際関係にあるクリスチャン女性は、相手との肉体関係を拒否することのできないようなシチュエーションに自分を持っていくことのないように十分注意してください。夫としての責任をもたず、ただ男として肉体関係をもってしまった男性は、女性を快楽のために利用することを覚えてしまい、そのような男性に利用されて振られた女性は精神的にも病むようになってしまいます。また女性の感情が高まっているときに、男性がつい守れない約束をしてしまうということも、よくあるものです。もしそのような男性との関係で深い傷を受けたのであれば、神様に涙で祈り、ただ神様からの癒しを求めることが必要です。あなたのそのようなうわべだけではない、心からの祈りを神様は喜ばれます。
夫婦の関係
神様は夫を通して妻に神の愛を表現するように、そして子どもたちを愛し、守るようにしようとされておられます。そのような存在として夫を祝福されました。また女性はすべての創造物の王冠として男性に敬われるべき存在として創造されました。夫婦関係における試練は、夫にとっては妻を自分のからだのように愛することであり、妻にとっては夫に従うことにあります。
永遠に渇くことのない生ける水を受け取るべき
神様に救われたクリスチャンは罪にまみれた世の中からの「生存者(心の傷は回復されていない)」ではなく「克服者(神の力を大胆に証しできる者)」でなくてはなりません。まだ「生存者」のままであるクリスチャン女性は、「イエス様に救われていながら、与えようとされているものを受け取れていない」状況にあるといえます。
ヨハネの福音書4章に書かれてあるサマリヤの女のたとえでは、2000年前の時代にサマリヤ人であり、女であるということで蔑まれていた女性に対し、イエス様が近づき、「セカンドクラス」と言われていた人々の地位を回復しようとされました。井戸で水を求めに来られたイエス様は、サマリヤの女の渇きを最初から知っておられました。それと同様に、私たちひとりひとりについても、神様はそれぞれの心を痛めつけているのが何であるのかを良く知っておられます。救世主がひとりの女のために足を止めたのと同様に、私たちひとりひとりのためにも足を止められ、それぞれの心の痛みをご自身の痛みのように受け止めておられるお方です。イエス様に救われながら、与えようとしているものを受け取れていない状態のクリスチャン女性は、神様が夫であると信頼し、心の中に思っていることのすべてを隠さず「夫」に話すことが大切です。
女性にとって家族というものは、子どもを愛し育てたとしてもやがて大人になり、親元を離れていってしまい、また夫をどんなに愛し愛されても、やがて夫に先立たれるというような虚無感に襲われる時がやってくるものですが、神様は子が育ち、夫が死んでも、女性の人生の最後の時までいつまでも共におられる「真の夫」であり、「真の夫」に守られその愛に包まれて生きることで、そのようなクリスチャン女性は人生においてたくさんの「霊の子ども」を産むことができるようになるでしょう。
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