中学校へ入学すると、息子Aが、一年遅れてBも卓球部に入部した。兄弟で同じクラブだったので、自然、共通の友人もたくさんできて、生き生きと楽しそうに学校へ通っていた。
だからというのではないけれど、私はクラブ活動肯定派だ。多感な成長期に、クラスとはまた違った顔ぶれの中で同年代が好きなことをするために集まる。泣き笑い喜び悲しみ、いやな奴とも同じことを力合わせてしなければいけないことのあることを学ぶ。
反対に、気の合う友人ができて学校へ行くのが楽しくなる。
けれども、困ったことが一つあった。日曜日にも練習や試合があって、教会の礼拝を守れなくなることだ。
息子Aも、日曜日の朝でも当然のように体操服に着替え、
「今日は練習」
自転車で出掛けて行くようになった。
初めての子どもの部活体験で、どうしたものかと戸惑っていたが、ある日曜日の朝、自転車で部活へ出発しようとする息子Aを、「ちょっと待ちなさい」。呼び止めて座らせた。
「今日は何曜日?」
「日曜日」
「母さんは、学校も部活も大切だと思とるけど、だからといって当たり前のように礼拝休むのはよくない。
学校の先生より、部活より、イエス様は大切なんよ」
「あ・・・」
「でも、部活に入ったからには、一人休んだらみんなに迷惑かけるよね。特に試合の日なんかは抜けるの、むつかしいよね」
「うん」
「どうしたらいいかな~?」
私もちょっと悩んだ。
このことに関しては、いろいろな意見の方がいらっしゃるだろう。
部活は最初から入らせるべきではない、という方。
学校の教育の一環だから、あまり神経質になることもないのではないかと、それを機に教会学校を卒業させてしまう方。
子どもの意思を尊重するべきだと、手を引いて学校や社会に従う方。
学校の権威は強力だ。そして、ほとんどの子どもというものは保守的で、周りの友人と違ったことをするのを恥ずかしく思うところがある。
けれども聖書には、「学校の行事だから礼拝を休んで当然」とは、どこにも書かれていない。
私は息子に約束させた。
「日曜日、部活の練習や試合で礼拝を休まないといけないときは、行く前にイエス様にゆるしてくださいと謝っていきなさい。そして、夕拝には必ず出るようにしなさい」
息子Aはそれを聞き入れ、それ以上のことをした。日曜日の練習に出掛けても、礼拝の時間前には「礼拝があるので帰らせてください」と断って帰ってくるようになったのだ。試合でやむを得ず朝拝を休んでも、夕拝には必ず出席した。
翌年、息子Bが同じ部活に入部した年に、卓球部の方針が変わった。
「毎日真面目に練習していたら、日曜日の練習はしないでもよい」
息子たちは喜々として報告してくれた。私もうれしく、でも一つだけ息子に尋ねた。
「うちがクリスチャンで、日曜日礼拝に行くから、先生は休みにしたの?」
「いや、先生は僕らがクリスチャンいうことは知らんと思う。部活の先生が女の先生に変わったから。でも、みんな喜んどる」
息子AもBも、同じ部の友人たちも、試合のない日曜日はゆったりのびのび過ごすようになった。
ところが、そんなある日、Bの同級生の母親Mさんから電話がかかってきた。そのご家庭は一家を挙げて熱心なスポーツ一家で、どんな小さな試合にも家族全員で応援に行く。父親は地域の少年野球団のコーチを務めている。Mさんからの電話は、卓球部の保護者会を開きましょうという呼び掛けだった。とても興奮していた。
「ひろこさん、どう思います?今年の卓球部の顧問の先生は日曜日の練習を廃止したんですよ。おかげでうちの息子は日曜日になると友達の家へ行って遊ぶようになりました。○月○日、夜7時から保護者会を開きますから、みんなで話し合って、日曜日の練習を復活させてもらいましょう!」
黙って聞きながら私は思っていた。
「私なら、子どもが友達と遊ぶのはうれしいけどな~。こういう考えの人もいるんだわ」
私は当時、夜の私塾を開いていたので、その保護者会には行けない。もしMさんのように熱心な保護者の意見が通って――たいてい、そうなるだろう――日曜練習が復活したら、またやりにくいことになるな。
でも、変人と思われても、自分の意見は伝えておくべきだ。
「Mさん、申し訳ありませんが、仕事があって、その保護者会には出席できないのです。でもね、私は、一週間に一日くらいは完全休みがあったほうがいいと思っているんですよ。だから、日曜日の練習がなくなってよかったな~と思っていたの。でも、保護者会で決まったことには従いますからね」
電話の向こうでMさんが絶句するのが分かった。きっと、自分たち家族と違う意見の保護者がいるなどと思ってもいなかったのだろう。
結局保護者会が開かれた様子はなく、日曜日の練習休みも息子たちが卒業するまで続いた。特に強くなりたい部員は、学校の部活以外に「ウィングス」という卓球の全国組織に属して余分に練習に励むことになったようだった。Mさんの子どもさんたちも、もちろんそこに入った。
余談になるけれど、
ある日、帰宅した息子たちが興奮して話している。
「母さん、T君の家、リッチなんで。ジュースは小さいけどペットボトル一本ずつ出してくれるし、ポテチ(ポテトチップス)も一人一袋ずつあるんで」
T君は、製紙工場の経営者の孫で、家庭が裕福である。
「よかったね、うちは友達みんなでポテチの大袋分けるし、ジュースもデカペットボトルからコップについでみんなで分けて飲むもんね。
いいな~、母さんもTくんところ遊びに行こうかな」
息子A&Bは目を見合わせて、
「母さん行っても面白ない思うで。中学生ばっかりじゃし。男の子だけじゃし。T君のお母さん、びっくりするかもしれん」
ひたすら阻止する(笑)
その頃から、卓球部の息子たちの友人は(息子たちも含めて)わが家にたむろしなくなった。ペットボトル一本ずつとポテチ一袋ずつというリッチなライバルに(笑)とられてしまったのだ。残念。
部活の友人たちを通して、息子たちは、非クリスチャンの男の子たちの生態を(笑)観察し、その後反抗期に入った。時に、
「他の子は礼拝行かんでええのに、どうして僕らだけ日曜日に礼拝行くん?」
口とがらして詰め寄るようになった。
「いよいよそういう時期が来たか」
ちょっと困ったが、私はくどくど説明したりご機嫌とったりしないことに決めた。
これは理屈ではないのだ。
「神様を礼拝するのはニンゲンとして当たり前のこと。礼拝せん人の方がおかしいんよ」
いつも澄まし顔で通した。
息子AもBも、大いに不満そうで、時にくってかかってきたが、
「日曜日は礼拝に出る。どうしても出られないときは夕拝に出る」
というルールは――神様の憐れみにより――守り続けた(守らされた?)。
あれから10年余り、息子Aは遠方に就職。勤務不規則なシフトの仕事に就いたので、なかなか教会に通えない。残念だ。
Bは私たち親と共に住み、近くの会社に通勤しているが、朝か夕の礼拝どちらかは、どうやら守っている。とても感謝なことだ。
(文・しらかわひろこ)