関東聖化大会最終日となった18日夜、カニンガム博士は「急進的弟子化への召し」と題してマタイの福音書19章16節~26節を引用してメッセージを伝えた。この箇所の御言葉では、ひとりの金持ちの青年がイエスと対話をしているが、イエスが青年に対し「完全な者である」ことを要求したところ、青年が受け入れられず悲しみのうちに去っていったことが記されている。
カニンガム博士はこの金持ちの青年の姿について、「彼は道徳的に正しい生き方をし、まだ年が若いにもかかわらず、おそらく彼自身が築いた財産ではなく、両親・祖父母から受け継いだ財産で豊かに暮らし、宗教的な教育を受ける権利やさまざまな特権があったにもかかわらず、自分に欠けているものを感じており、それを埋めるためにイエス・キリストに救いの核心を尋ねにきたのだろう」と説明した。
この青年の様子について、「私たちの中にも同じような気持ちを持っていらっしゃる方もおられるのではないでしょうか。聖書を読んで成長し、子どもの頃から善悪をわきまえ、神様から物質的・霊的な恵みを受け取りつつも、自分の生き方に物足りなさを感じてはいないでしょうか」と問いかけた。
カニンガム博士は、この青年が功績主義的救済思想(行為義認)に陥っており、良いことをすればその報いとして永遠の命を得ると考えていたため、律法の教えを全うするにはどうすればよいかを知ることを期待していたのではないかと述べた。
一方でイエス・キリストは山上の垂訓の中で「あなたがたの義がパリサイ人や律法学者に勝らないならば、神の国に入ることはできません」と述べている。ことさらに律法を守ることよりも、イエス・キリストは、人の心の中の状態、「敵意を抱いたり情欲の心を持って異性を見る」などの心の中の汚れを取り除くことに重きを置いた教えを行っていた。
イエス・キリストは同様にこの青年にも表面的な義ではなく「心の内を見る」ことを勧めた。カニンガム博士はこの青年について「外側から見ると完璧な人であり、教会に良い影響を与える人物で、当時のイスラエルで最も魅力的な青年であったかもしれません。イエス様がこの青年の心の中に見られたのは『プライド』であったと思います。この青年の心の奥にイエス様が入るためには、どうしてもその心の中にあるプライドを砕かなければならないと感じておられました」と述べた。
この青年が「隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めについて、本当に守るならば、自分だけ豊かで周りの人が貧しいという状況をそのままにすることなく、貧しい人に与えることが正しい行いであり、イエス・キリストはこの青年に対し「富や物質によって、社会的な期待をされるような生き方をするのではなく、信仰によって生きる」ことを勧めたのだという。
カニンガム博士は、キリスト教の信仰について「イエス様が求めておられるのは、何か一つの目立った行いではなく、自分を否定していく生涯を生きるということです。青年はある霊的なレベルまでは成長している良い人ではありました。私たちもまた同様にある程度まで良い人たちであると言えるかもしれません。しかしイエス様はこの青年に対して、ただの良い人にとどまるのではなく『完全でありなさい』と言われたのです」と説明した。
この「愛において完全に成長した者となる」というのは、神様が私たちに与えられた目的をこの世で完全に果たすことであり、「神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい」という神様からの命令を言葉だけではなく、行いを持って全うすることにあると述べた。
カニンガム博士は「イエス様が私たちを弟子として召されるとき、そこには知的・霊的な決断をするだけではなく、ある具体的な生き方に実際に入るように導いておられます。この青年は自分の財産をすべて貧しい人に与えることができませんでしたが、イエス様の最初の弟子となったペテロやアンデレは、漁師としての生活の必需品であった船と網を捨ててイエス様に従っていきました。一方で金持ちの青年は自分中心な選択をしてしまい、自己中心な道を選んで悲しみながらその場を立ち去っていきました」と述べ、本当にイエス・キリストの弟子となるのであれば、「周りにいる貧しい人と和解する生き方をし、イエス・キリストと共に行き、完全にすべてを捧げて徹底した従順を実践していくべきであり、それこそがホーリネスであるといえるでしょう」と説いた。
またカニンガム博士はこの青年を別の視覚から見ると、「社会からひとり離されて他の人と交わりが持てず孤立した状態であったのではないでしょうか。イエス様はこの青年に対して、青年の周りにいる人々、コミュニティに入って行くことを導かれましたが、結局青年はコミュニティに入って行くことよりも、自分ひとりで行く道を選んでしまったのではないでしょうか」と指摘し、「東京でもほとんどの人がこの青年と同じようにひとりの道を歩んでおり、孤独と悲しみに満ちている状態にあるのではないでしょうか。イエス様はそのような人々に『共に生きる道を歩みなさい』と勧めておられます」と述べた。
この青年と対照的な存在といえるのがパウロ使徒であるという。パウロ使徒は生粋のパリサイ人の律法学者であったが、イエス・キリストに従っていくために、「私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています(ピリピ3章)」と宣言するに至り、神からの義を信仰によって自分のものとすることができた人物であったと説明した。
パウロ使徒は信仰の道について「律法を守ることによっては義を得られず(ローマ3・20)」、「キリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる(ガラテヤ2・16)」と説いている。私たちが救われたのは「ただ恵みによる(エペソ2・5)」のであり、行いによるのではない。それは、誰ひとり自分を誇ることのないため(Ⅰコリント1・29)であり、この「自分を誇る」という点でイエス様と「金持ちの青年」は対立してしまったという。
このことを踏まえてカニンガム博士は「皆さまがそれぞれ一般的に見れば良い生き方をしておられるでしょう。この世の基準で見るならば立派な人です。しかしイエス様はその水準にとどまるのではなく、完全な道へと招いておられます。あなた自身の本質、その目的を果たす生き方をされたいと思っておられるでしょうか。神様から恵みとして出ている愛が溢れ出て他の人と分かち合いたいと思われるでしょうか。神様が私たちにも同様に『全き人となる』恵みを得られるように導いておられるのではないかと思います」と呼びかけた。
来年度関東聖化大会は2012年10月14日から16日まで開催される予定で、米カリフォルニア州サン・ディエゴ市ポイント・ローマ・ナザレン・カレッジ教授のマイケル・ロダール博士が講師として招かれる予定であるという。
関東聖化大会を主催した関東聖化交友会(JHA)は、聖書的な聖化(きよめ)の道を共に歩み、日本中に広めるための交わりのための活動を行っており、教会会員・個人会員を募集している。詳細は同会のホームページまで。