フィリピンの地域教会における牧会経験も有するカニンガム博士は、ウェスレアン・ホーリネスの流れについてその歴史的背景をわかりやすく解説し、ホーリネスの伝統が21世紀を生きるキリスト者である私たちに何を語りかけているかを説明した。
~聖化は共に生きるもの~
同氏によると、ホーリネスの信仰を受け継ぐキリスト者として、「神様が時と空間の中において私たちを用いておられ、私たちが育てられたところには、必ず目的と使命がある」ことを信じ、「教会全体にホーリネスが受肉すること」が必要であるという。
ただひとりの個人だけが聖化されるのではなく、共同体としてホーリネスを受肉し、聖化されることで主にある個人が束ねられ、貧しい人とのかかわり、社会とのかかわりを模索していく教会となる必要が説かれた。
また西洋のキリスト教会の信仰がその文化社会的背景から個人主義に陥りがちであり、現代社会に至っては教会に行かず自宅でインターネットを通して礼拝をささげるまでの個人化が進んでしまったことに懸念を示した。
東洋社会では歴史的に人と人とのつながりを大事にする文化が培われており、「個人」ではなく「共同体」の視点でホーリネスを受肉していく下地が養われている一方、キリスト教に改宗する際、西欧社会のように「個人の信念の変更」として受け入れられるものではなく、家族や社会から勘当されるような事態にまで発展するのが東洋社会における宣教の難しさの一因になっていることが指摘された。なお、個人主義の風潮の中に生きてきたといわれる現代西欧人も、「個人の主張というものは、共同体の視点と共にバランスを持って考えていかなければならない」ことを東洋社会の文化から次第に学びつつあるという。
またキリスト教の共同体が、ポストモダン社会の影響によって、真実の共同体から人々が引き離され、個人主義的な礼拝、信仰に陥るようになっている状況を、初代教会がグノーシスに直面した状況とも似ていると指摘した。
グノーシスでは肉体そのものが遺伝的に邪悪であり、受肉したイエス・キリストが完全なる人であることを受け入れず、人は邪悪な有り様から離れるためには肉体を離れなければならないとされた。
一方本来のキリスト教では、肉体であるがままの私たちが、日常生活の中で聖化することが可能であると説いているが、現代のクリスチャンの中にも聖化することに対し、「人間にすぎない自分が清くあるはずがない」とキリストの受肉した意味について間違った認識を持ったままの人たちが存在しているのではないかと指摘した。
~キリストに始まる受肉した神学~
カニンガム博士は、ホーリネスの信仰を受け継ぐキリスト者が今日なすべきことは「個人のホーリネス」と「社会のホーリネス」をひとつにすることであると強調した。
初代教会の信仰を顧みると、本来聖化は共に祈る人たちの集いの中から生じるものであったが、20世紀に入りホーリネスの運動が個人の聖化を強調するようになり、その影響が全世界に伝わるようになったという。個人の聖化が強調されるに伴い、ホーリネスを個人の外側に現れる行いと関連づけるようになり、神の憐れみによる聖化ではなく、人間の功績主義的救済思想(行為義認)が強調されるようになり、ホーリネスという宗派全体が「非常に律法的で厳しすぎる」という印象を与えるようになってしまったという。その結果、社会の遠隔に追いやられている人たちへの憐れみの思いに欠け、周りの人々の必要に対して心を閉ざしてしまうようになり、宣教師たちもそのような影響を受け、弱った人に対する思いやりという姿勢に欠けるようになってしまった過去の過ちがあったことを指摘した。
つまり信仰生活において「愛」を強調するよりも「どのように全き清めを受けたのか」という事が重んじられるようになってしまった過ちがあったという。その結果、たとえば飲酒をしない、タバコを吸わない、俗的なことに関わらないという律法的なことを守ったとしても、心の内では隣人のことを憎んでいたり、怒りに満ちていたり、配偶者に暴力的であったりという二面性が生じる信仰生活が生じるようになってしまったという。カニンガム博士は、現代の私たちもそのような愛の行いの欠けた偽りのホーリネスに陥ることがないようにするべきであると警告した。
行為義認の信仰に陥ると、自分たちが世の中の人たちよりも聖なる生き方をすることで高い所にいるかのような傲慢な思いにつながってしまうという。もし実際の生活の現実でそのような信仰の姿があるのだとすれば、悔い改めるべきであると述べた。
真実のホーリネスを体験した人は、真の幸せに満ちているはずであるが、実際には自分はホーリネスの信仰をもっていると標榜している人たちの中に、自分が幸せであるという感覚が全然ないということがあると指摘した。人々に受肉した本当のホーリネスというものは、個人ひとりが完全な聖化の道に達するのではなく、信じる人たちの間で集合的に証しされるものにならなければならないという。神様は誰か特定の人を聖化しようとするのではなく、「私たちを一つの集まり」として用いられるお方であるという。
そのため、リバイバルを起こすには個人的な聖化にとどまることなく、集合的に神の霊の働きに応答するという事が必要になってくるという。そもそもアダムとイブは、神様との交わりに生きるように、そして互いに愛し合うように創造された。初代教会においても、「共同体と共に生きる」という中にあってリバイバルが生じてきたが、ルネッサンス以降の啓蒙主義の影響により、賛美歌や説教にも自己に重きを持つ思想が反映され始めるようになり、その結果共同体に対する責任についても同等に私たちが神に召されているにもかかわらず、個人の全き聖化の面だけが強調されがちになってしまったという。
~社会に影響を与えるホーリネス運動~
カニンガム博士はホーリネス運動の本来のあり方として、「私たちがホーリネスに向かって召されるということは集合的に聖化されることにあります。個人のホーリネスは信仰共同体との関連なしには考えることはできません。集合的に私たちはこの社会にあってホーリネスの民はどう影響を与えるべきなのかという事を考えることなしには生きることはできません」と説明した。
また聖霊の働きというのは組織体と離れて成されるものではないことを強調し、(個人ひとりではなく)組織が聖霊に用いられるようにしていかなければならないと述べた。もし組織体がホーリネスの運動を妨げるような構造になっているのならば、聖霊は別のチャネルを開いてその働きを表そうとするという。そのため、ホーリネスを標榜する教会は、聖霊による聖化の恵みのチャネルに合わせるようにして進んで行かなければならないとし、「常にどのようにすれば、自らの組織が聖霊の働きを妨げないように機能することができるか」に配慮して行かなければならないと述べた。
カニンガム博士は「真のホーリネスの運動は悲観的にならず、楽観的であることができ、神様は社会に影響をもたらすほどの清めを私たちに与えて下さるお方です」と述べた。そのような聖霊の働きを妨げるものが「個人主義」にあると警告し、「ホーリネスの運動は孤立したものであってはなりません」と述べた。
イエス・キリストと自分という個人的な聖化の関係を越えて、本当の愛に満たされた人は、隣人への責任というものに召されていくという。つまり「私が清められる」というだけで十分という「頑なさ」をもつことは、本当の意味での聖化の教義ではないという。「清められた」状態が、その人の属する家族にとって、また集団にとってどのようなものであるかが問われるべきであるという。
特に共同体の和を重視するアジア社会では、世から分離する内面的なホーリネス運動というものは、文化の中にも適応するのが難しく、神の子とされた私たちが、集合的な意味でどのような社会的な働きができるかを考える必要があると指摘した。真のホーリネス運動とは、自分たちだけの生活が清められるだけではなく、社会で困っている人々を伝道し、世の中に影響を与えていくものでなければならないと説明した。
カニンガム博士は「私たちが個人の聖化のことを強調し過ぎると、社会に対する責任がなおざりにされてしまう」ことを警告し、「個人だけの聖化は聖書は認めておりません。共同体の中に生き、世界に向かってイエスを証しする人として生活をすることが必要です。イエス様は社会から離れておられるのではなく、社会の運動の中に居られて影響を与えようとしておられるお方です」と述べた。
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フロイド・カニンガム博士 略歴
1954年9月22日米国に生まれる。イースト・ナザレン・カレッジ、ナザレン・セオロジカル・セミナリー、ジョン・ホプキンス大学で学び、フィリピンにあるアジア・パシフィック・ナザレン・セオロジカル・セミナリー(Asia Pacific Nazarene Theological Seminary)の第5代学長となる。
APNTSは、ナザレン教団が、アジア地域において、米国と同水準のウェスレアン神学の真髄を教育し、アジアをはじめ世界への架け橋となるリーダー・人材の養成を目指している神学校で、カニンガム博士は1983年の創設当初から現在まで教授として奉仕してきた。専攻は歴史であるが、神学や宣教などの分野でもコースを教え、フィリピンの地域教会での牧会経験も有する。