グローバル化の進展に伴い、人にとって本当に良いものが、淘汰(とうた)される危険が増えています。民主主義や資本主義は、現代社会において極端な富の集中を招き、経済力が全てに優先する社会を創り上げてしまったため、もうかる者だけが勝ち残る時代になってきたように思います。
私たちは現実を冷静に直視し、人間らしい社会を継続させるため、惑わされることなく、社会にとって良いものを大切に残したいと切に願っています。富の誘惑に対する戦いは、目に見えない霊の世界の戦いですから、神の武具を用いて悪魔の策略に立ち向かいたいものです。
悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。(エペソ人への手紙6章11節)
極端な電動化は環境を悪化させる
上記のような懸念は、現代社会のあらゆる領域に存在していますが、私が長年経験してきた分野(内燃機関)における現実を述べたいと思います。
内燃機関は二酸化炭素を排出するため、地球環境に悪く、電動化が必要であると、今では常識のように言われています。電動化の弊害に関わる情報もある程度拡散しているのですが、大きな経済力に支えられる専門家やマスコミが電動化を強引に勧めていますので、極端な電動化の流れを留めるのが難しくなっています。
実は電気自動車などの電動化技術は、現在のところ二酸化炭素の排出を抑制するどころか増加させており、改善の見通しは立っていません。さらに、電動化の中心であるバッテリー技術が未熟なため、航続距離が短く、使いにくいだけでなく、火災の危険があり、製造や廃棄を通し、環境破壊が進んでいます。おそらく現代社会の電気自動車は、いまだ限定的な利用にしか適応できない技術レベルだと思います。
内燃機関が最も優れている
それに比べると内燃機関は、合成燃料の登場により、環境性能は一段と向上が見込まれ、二酸化炭素の抑制にも大いに貢献できる可能性を持っています。
私が入社した1980年は、ちょうどガソリン車の排気浄化技術として三元触媒システムが確立した年でした。この三元触媒システムの性能の高さはすさまじく、今ではガソリン車を走る大気清浄機にしてしまうほどの能力を持っています。
よく、ガソリン車が多く走っていると、排気ガスによって大気が汚れると勘違いしている人が多いようですが、極端に古い車や不調な車を除き、ガソリン車は大気をきれいにするほどの能力を持っています。
さらに、昨今の合成燃料の使用を考慮すると、ガソリン車だけでなく、ディーゼル車の排気レベルも格段に向上する可能性があります。また、植物由来の燃料や水素利用が進むことで、二酸化炭素の抑制にも大いに期待が持てるところです。
おそらく、全ての面で内燃機関は、電気自動車よりはるかに使いやすく安全であり、環境にも優しい技術なのでしょう。上記のようなことは、少し冷静になって調べれば分かるはずのことですが、電動化を勧める圧倒的な情報がいまだに世の中を取り囲み、内燃機関の優れた技術が淘汰される危険が存在しています。
今だけ、金だけ、自分だけの世界
それでは、なぜこれほど現実を無視した電動化の流れが世界を覆うようになったのか。答えは簡単明瞭です。それはグローバル化の進展により、経済力が最も重視されるようになったからです。悪魔の策略と言ってもいいでしょう。
もちろん、内燃機関が淘汰されれば、これまで培ってきた技術や人材が失われ、これもかなりの経済損失になるのですが、電気自動車をはじめとする電動化を新規に進める経済効果は測り知れないほど大きく、電動化技術の進展を留めることは難しくなっています。
つまり極端な電動化推進は、地球環境を無視し、もうかることだけを考え、大切な伝統技術や人材を淘汰させる「今だけ、金だけ、自分だけ」の世界を象徴する現代社会の闇のような気がしています。
真に良いものを受け継ぎたい
もちろん、電動化の課題は比較的分かりやすく、内燃機関の方が使いやすいことはユーザーにも理解できることですので、いずれ電気自動車などの極端な電動化技術は、限定的な利用法に落ち着くと思います。
しかし自動車以外にも、日本社会にはこれまで先人たちの残した価値ある技術や作品、仕組みが数多く存在しています。グローバル化の進展に伴い、これらがある程度淘汰されることは、やむを得ないことかもしれません。
しかし、現代社会にとっても価値があり、人々を幸せにする日本社会に受け継がれた大切な遺産は、たくさん残されているように思います。それらを守り通すことは、現代社会に生きる私たちの使命のような気がしています。
経済力を第一に求める現代社会の中にあっても、私たちは信仰によって、目に見えない宝を受け継ぐものになりたいものです。
だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。(マタイの福音書6章24節)
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