私たちは、全国から寄せられるキリスト教葬儀の依頼に対し、故人や遺族の希望に沿えるよう、それぞれの地域の司式牧師や葬儀社との仲介を担う働きをしています。全国からの依頼ですから、司式牧師や葬儀社はほぼ毎回異なり、遺族がキリスト教葬儀を希望される背景も違いますので、さまざまな趣のある葬儀が展開されています。
しかしながら、これらのどの葬儀においても、遺族や司式牧師から寄せられる感想、評価はすこぶる高く、そもそもキリスト教葬儀には悲しみの中にある遺族や参列者を慰める力が備えられているように感じています。それらの力の源が聖書信仰にあるのはいうまでもありませんが、聖書の言葉に基づく「祈りや賛美」を通し、生きて働く神様が遺族や参列者の心の痛みを担い、「天国の希望」を与えてくださるのだと思います。
「祈りと賛美」が導く「天国の希望」
私事ですが、2011年に長年勤めた会社を退職し、全寮制の聖書学校に入学した際、大きな環境変化のため、生活面ではかなりの不自由を感じていました。ところが、心の内面においては大変居心地の良い時間が、その頃から継続するようになりました。おそらく、聖書学校の生活の中に「祈りと賛美」のあふれる環境が備えられていたからなのでしょう。
人間は、体と魂と霊によって構成されていると聖書に記されていますが、本来、神様とつながるべき霊の働きが悪霊の働きなどによって損なわれると、魂や体にも悪い影響を与えます。現代人の多くは、程度の差はありますがそのような状態にありますから、神様の霊(聖霊)に触れて活力を得ると、魂は喜びと希望にあふれ、体も癒やされて健康になるのだと思います。
私が3年間の聖書学校の生活を通し、健康が備えられ、心身共に疲れを感じなくなったのは、「祈りと賛美」の習慣が与えられ、神様の霊(聖霊)との交わりが多くなったことによると考えています。私の心の内には「天国の希望」が常に存在するようになりました。
司式を通して広がる「天国の希望」
聖書学校を卒業後、私は多くのキリスト教葬儀に対応するようになりました。葬儀は、遺族の心の痛みを共に担う働きですから、葬儀の司式に向かう際には、悲しみの現場に向かう緊張感が心の内を支配するものです。
しかしながら、葬儀の司式を通し、聖書の言葉を伝え、「祈りと賛美」を導くと、神様の臨在を強く感じるようになり、緊張感から解放され、遺族や参列者と「天国の希望」を共有できるようになります。やがて葬儀が終了するころには、安堵感と共に、遺族と共有した「天国の希望」が自らの心の内で広がっていることを感じています。
「祈りと賛美」があふれる礼拝
通常のキリスト教葬儀は、賛美、祈り、聖書、説教、献花、賛美、終祷、飾花(出棺)とプログラムが進みます。もちろん、遺族の希望によって特別なプログラムが準備されることもありますが、大きな違いはありません。これらは、一般的な教会の礼拝の流れに沿っています。
ところが、多くの教会の礼拝に参加して感じることですが、同じようなプログラムであっても、礼拝から受ける印象は、地域の教会ごとに随分と異なります。
礼拝の中で神様の臨在を強く感じ、霊の癒やしを体験できるカギは、礼拝の中に、聖書の言葉に基づく「祈りと賛美」が満ちていることだと思います。キリスト教葬儀も礼拝としての側面が強いですので、おそらく同じことがいえるのでしょう。
キリスト教葬儀に「祈りと賛美」を満たしたい
もちろん葬儀の現場は、故人の「死」がもたらした大きな悲しみが覆っています。また、遺族や参列者の多くは未信者です。教会で持たれる礼拝とは異なり、配慮すべきことが多くなります。
しかし、そのような悲しみの場だからこそ、「祈りと賛美」が満ちるなら、神様の霊(聖霊)は遺族や参列者の心に一層寄り添い、慰めと励ましを豊かに備えてくださるに違いありません。
私たちは、キリスト教葬儀のプログラム全体に「祈りと賛美」をさらに満たしたいと願っています。聖書の言葉に導かれ、心から「祈りと賛美」をささげるなら、神様の霊(聖霊)はあふれるばかりの慰めと「天国の希望」を備えてくださると思います。キリスト教葬儀の品格は一層向上するでしょう。
おそらく奏楽者や賛美リーダーがおられる地域教会なら、教会員の葬儀に対し、既にそのような葬儀を提供しておられるかもしれません。私たちは日本宣教拡大を目標にしていますので、教会に疎遠な方や未信者にも、また奏楽者や賛美リーダーの手配が難しい方にも、そのような葬儀が提供できるように準備を進めたいと願っています。
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