以前に書かせていただいたように、聖書が語っている神様の奥義の核心は、神様と私たちの天的(霊的)な関係に関することであり、復活の時には(魂の本質においては)人はめとることも嫁ぐこともなく、男性でも女性でもありません。しかし私たちは、この地上にいる間は、自分の体に対しても責任があるわけですから、今の時代の流れとしてのトランスジェンダーに関する医療やLGBT教育についての個人的な懸念を共有させていただければと思います。
「懸念」・・・そうです。正直なところ、私は多くの懸念を抱いていて、少しでも警鐘を鳴らしたいと思い、この連載を始めました。それは、気が付いたときには同性に興味を持っていて、「ゲイの人は地獄に行く」というような言葉に極限のプレッシャーを感じて悩み傷ついている「ただの子どもたち」に関するものであり、同時にLGBT教育や社会の進歩的な風潮の影響を受けることによって、不可逆的な性転換手術やホルモン療法などの決断を拙速に下し、後悔をしてしまう人たちに関するものです(全員が後悔をするという意味ではありません)。
前者に関していえば、私はこれまでのコラムでいろいろと書いてきました。「LGBTの方々が教会から受けた迫害の歴史」「旧約聖書に書かれた同性愛についての解釈」というような事柄についてです。なぜこれらのことについて細かく書いてきたかといえば、これまでのキリスト教の誤ちや、聖書解釈の粗暴さを認めた上でないと、対話の可能性は閉ざされてしまうと思うからです。
■ 自己決定をさせられる心理的負担
さて、後者の懸念について、順を追って説明させていただきます。LGBT教育は、子どもたちが性別や性的指向を多様なものとして理解できるようにサポートすることを目的としています。しかし、性別の流動性に関して教育をすることが、自己認識が発展途上にある子どもたちのアイデンティティー形成に混乱をもたらすリスクがあります。
具体的には「体の性」「心の性」「表現する性」「好きになる性」などを、男性と女性を両端としたパラメーターの中で、自由に自分の感覚に印をつけて選択させるような教育がなされようとしています。これは、「リッカート尺度(Likert scale)」や「連続評価尺度(continuous rating scale)」などといわれている方式です。
そうすると、全てを男性女性にきっちりと分けるというよりは、どちらかといえば男的・女的というような中間的な選択をしがちです。この心理を「中庸傾向」や「中間選好」といい、特に日本人に顕著なものです。日本文化は、調和や和を重視するため、自己の明確な意見を表明して他者との対立を生むというリスクを避ける傾向があるのです。また仲の良い友達グループがLGBT的な性向を持っている場合、同調圧力に促されることも容易に想像できます。
そもそも自己のアイデンティティーや性について不安定な10代の子どもたちに、自己決定を促す質問をすること自体が、心理的負担や不安、ストレスとなり得ます。これは大人にもいえることですが、「選択のパラドックス(The Paradox of Choice)」と呼ばれていて、心理学者バリー・シュワルツ(Barry Schwartz)が提唱したものです。
■ ホルモン療法「思春期抑制剤(puberty blockers)」のリスク
そしてLGBT教育の延長線上に、ホルモン療法が選択肢として提供されるということになります。例えば、女子であるのに心は男性的な気がするという子どもたちに、二次性徴の発達を抑制する薬の投与がオプションとして与えられます。これらは「体がより自分自身と一致していると感じるのに役立ち、自己受容を促進することができる」という「ポジティブ」な効果があるとうたわれていますが、実際には多くの副作用やリスクもありますので、それらを列挙しておきたいと思います。(参照:性別不合(性同一性障害)治療、FTM胸オペ 、GID学会認定医 | 自由が丘MCクリニック)
【頻度の高い副作用】
不正出血、ほてり、熱感、のぼせ、肩こり、頭痛、不眠、めまい、発汗、関節痛、骨疼痛(とうつう)などの疼痛
【頻度5%未満の副作用】
性欲減退、冷感、視覚障害、眠気、いらいら感、記憶力低下、注意力低下、知覚異常、悪心(おしん)、嘔吐(おうと)、食欲不振、腹痛、腹部膨満感、下痢、便秘、口内炎、口渇(こうかつ)、疲労、倦怠(けんたい)感、脱力感、口唇・四肢のしびれ、手根管症候群、耳鳴、難聴、胸部不快感、浮腫、体重増加、下肢痛、息苦しさ
以上は身体的なリスクですが、精神的・心理的リスクとしては、気分変動、情緒不安定なども指摘されています。
■ 性転換手術(性別適合手術)
さらに次の段階として、「性転換手術」と呼ばれるものがあります。これに関しても、さまざまな角度から慎重に考える必要がありますが、とりあえずは医学的なリスクを列挙しておきたいと思います。まず身体的な健康上のリスクに関していえば、一般的な外科手術と同様の、感染症、出血、全身麻酔による合併症やアレルギー反応などが考えられますが、それとは別に「性転換手術」特有のリスクというものがあります。
【身体的なリスク】
術後の合併症:術後の創部が治癒しない、瘢痕(はんこん)形成、組織壊死(えし)などの合併症リスク。
尿道の問題:特に男性から女性への手術では、尿道の問題(狭窄や感染)が発生するリスク。
腫瘍や瘢痕組織の形成:術後の組織に腫瘍や瘢痕組織が形成されるリスク。
【精神的・心理的リスク】
心理的調整:手術後の自分の新しい体に対する適応が難しい場合がある。
【社会的・経済的リスク】
費用:手術は高額であり、保険が適用されない場合もある。
社会的支援の欠如:家族や友人、職場などから理解が得られず、社会的孤立感を感じることがある。
また、性転換手術(性別適合手術)というネーミングにも注意が必要です。ある人はこう聞くと、手術を受ければ、男性は女性に、女性は男性になれるものだと思ってしまいます。しかし実際のところは、手術は生殖機能を喪失させるだけで、真の性別変更をもたらすわけではないという指摘もあります。
■ 後悔のリスク
一部の人は、手術後に後悔や不満を感じることがありますが、その割合はどれくらいでしょうか。一般的には1%から2・2%程度とされていて、最も高く報告されている事例だと3・8%程度となっています。これを多いと感じるか、少ないと感じるかは人それぞれだと思いますが、実際にはこの数字に表れない潜在的な要素もあります。それは、主に自己の内面の事象と、外部の人との関わりに関することです。
認知的不協和
自己の内面の事象に関していえば、「認知的不協和」というものがあります。それは、自分の選択や行動とその結果が矛盾する場合に感じる、不快(認知的不協和)を軽減するために、自分の選択が正しいと信じ続ける傾向のことを指します。具体的にいえば、性別適合手術を選択した後、後悔や不満を感じても、それを認めることでさらなる心理的な不協和が生じる場合、無意識のうちに自己選択を正当化するということがあり得るということです。
社会的プレッシャー
また外部の人たちとの関わりにおける「社会的プレッシャー」というものがあります。それは、性別適合手術は個人的な決断であると同時に、社会的にも注目される選択であるため、トランスジェンダーのコミュニティーや、家族・支援者からの期待やサポートがあるということです。これはポジティブに捉えることもできますが、同時に周りの人々の期待に応えなければというプレッシャーが生じ得ます。つまり、実際にはフィットしていないと感じても、「後悔している」と表明することに抵抗を感じ、一人で内面的な葛藤を抱え込んでしまう可能性があるということです。
子どもを授かることができなくなる
日本の法律において、性別を変更する場合、以下のような条件があります。
・性別適合手術を受けていること
・生殖能力がないこと
つまり、そのような判断をした人たちは、恒久的に自分の子どもを授かる可能性を失うことになります。そして難しいのは、自分が子どもを欲しいと思うようになる年齢と、性別適合手術を選択するタイミングとの間に時間差が生じ得るということです。
例えば、20代前半の頃に性別適合手術を選択して生殖能力を失ってしまうと、30代になって自分の子どもを授かりたいと思っても、それがかなわないということになってしまうのです。ですから、英国などの諸外国においては、生殖器の除去手術などを法的な性別変更の要件には含めないという方針をとる国もあります。
人の心にはグラデーションがありますので、一概に「後悔している」「していない」と測るのは難しく、上述したような要素が、その実態の把握をさらに困難にしています。また、各自の判断をどうサポートするか、後悔をしてしまった人々の心のケアや法整備をどうするかなどにも、熟慮が必要です。
■ 私の子ども時代の感覚
さて、なぜ私がこれらのことに警鐘を鳴らしているかといえば、私自身も同性に好意を感じるという経験があったからです。それは具体的には、小学4、5年生ごろのことでした。仲の良かった同性の友達の自転車の後ろに座って、落ちないようにつかまっていたときに、何ともいえない「大好き」という感覚をその友達に感じていたことを思い出します。その時の私は、自分がちょっと変わっているのかなと思っていました。
ところが、大人になってから知ったことですが、発達段階における心理的特徴として、小学生の子どもたちが同性の友達と絆を築く過程において、それを好意や愛情として感じることは、よくあることのようなのです。
そして、その後の私はどうなったかといえば、中学2年生ごろになると、自然と異性に恋心を抱くようになり、その後は何度かの異性との恋愛を経て、現在の妻と出会って結婚し、子どもを授かっています。
もしも当時、現代のように性自認を自己決定するようなワークシートがあったなら、「好きになる性」という項目では同性の友達を想定し、ホルモン療法や性転換手術(性別適合手術)という道もあるよと言われたら悩んでいたかもしれません。
私のようなケース以外にも、さまざまなケースがあると思いますが、いえることは、少年・少女の時には性別が曖昧であったり中性的であったりする子どもたちが、第二次性徴の発育とともに自己の性を確立していくというのは自然なことだということです。しかしその前に、全ての子どもたちに、自己の性に対する判断を要求したり、ホルモン療法や性転換手術(性別適合手術)のオプションを提示してしまうと、それ自体が心理的な負担となってしまったり、誤った選択をしてしまったりする可能性があるのです。
もちろん、医学的に性同一性障害と診断されるような子どもたちが、いつでも相談できるように窓口を開いておくことは大切だと思います。しかし、その対象を無条件に全生徒とすることには非常に慎重になる必要があると思います。
■ 不可逆性
「LGBT教育を推進することは進歩的であり、それに反対するのは古臭い考えにとらわれている」「それらは当人たちが自由に決めることだ」などと主張される方もいます。しかし、私はあえて個人の見解として、慎重に慎重を重ねるべきであることを強調したいと思います。それは、その結果が人生に与える影響が多大であり、また不可逆的であるからです。それは言い換えれば、取り返しがつかないということです。
成人した大人であっても、自分で何かを判断して決断しているつもりでも、実際は社会の雰囲気や時代の風潮に合わせて、深く考えずに決断を下し、後悔するということは多々あることです。まして、判断能力の未熟な子どもたちに、多くのリスクがあり、不可逆的で恒久的な変化をもたらす判断を促すことには慎重にならなくてはなりません。
では実際には、何歳からこれらの療法が行われているのでしょうか。日本では、小学6年の男児(12歳)に大阪医科大病院(大阪府高槻市)が抗ホルモン剤を投与し、思春期の体の変化を抑える治療をしたことが報じられています。また米国では、8歳の子どもに思春期阻害剤が処方されたことが報じられています。
大人ですら自己の体と将来を不可逆的に変えてしまう決断を正しく下すことは、容易ではありません。ましてや、小学生たちにその自己決定権が委ねられることには懸念が拭いきれません。もちろん、本人の意思を補助する親や教師たちのサポートもあることでしょう。しかし、その見解は夫婦であっても異なることがあるでしょうし、親と教師の考えにも乖離(かいり)があるでしょう。例えば、米国の8歳の子どものケースでは、母親の同意のもとで思春期抑制剤が処方されましたが、父親はこれに反対し、裁判となったそうです。
■ イーロン・マスク氏の事例
マスク氏が、カナダ人心理学者のジョーダン・B・ピーターソン博士との対談で語った内容も、親の立場の難しさを示唆しています。
マスク氏は、息子が性転換する際に、医療関係者から書類にサインするよう求められ、「同意しなければ息子が自殺するかもしれない」と告げられたと告白しています。また、思春期抑制剤が実際には「chemical castration drugs(化学的断種・去勢薬)」であることについて十分な説明を受けなかったと述べています。彼はこれらの点について、「信じられないほど邪悪な行為」と強く非難しています。
もちろん、これはマスク氏側の一方的な主張ですので、そのままうのみにすることはできないでしょうが、このイシューがどれほど家庭内に大きな葛藤をもたらし得るかについては、知っておく必要があるでしょう。当の本人であるザビエルさんは、2022年に性別と名前を変更し、現在は父親との関係を一切望んでいない状況とのことです。
■ 最後に
誤解のないようにいっておきますと、今回のコラムは、既にホルモン療法や性別適合手術を受けた方々を否定すべく書いたものではありません。これは今後、そのような選択の岐路に立たされる子どもたちや、その親や教育者たちが判断をするための参考にと書いたものです。
私は一つの個人的な立場として多くの「懸念」を抱いていて、それぞれに警鐘を鳴らさせていただきました。もちろん、異なる立場の方々も多くいらっしゃることでしょう。これはインスタントに答えを出すのが難しい問題ですので、個々のケースにおいて、各自が当事者に寄り添い、熟慮に熟慮を重ねていただければと思います。
最後に、既にホルモン療法や性転換手術(性別適合手術)を受けた方で、キリスト教信仰に興味のある方に伝えたいことがあります。それは、あなたはそのままで、神に愛され、受け入れられている存在であるというメッセージです。
使徒の働きの8章には、神の御霊がピリポという弟子に対して「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と促されたことが記されています。そして、その馬車の中にいた人は、生殖器を除去する施術を受けた宦官でした。この人に対して、神の御霊は特別にピリポを遣わし、結果的にこの人は、その場でバプテスマ(洗礼)を受けて信仰に入りました。
このように、全ての人は神様に愛され、受け入れられているのです。今日論じたことは、地上における肉体に関することですので、このイシューに対する見解の相違が、神様との関係を持つという天的で永遠な事柄の妨げにならないことを願います。
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