律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。・・・イエスは人々に言われた。「・・・安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」・・・その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。(ルカ6:7~10)
4月も残りわずかになりましたが、ますます神様の恵みを求めていきましょう。その恵みの中でも、今日は特に、イエス様の「癒やし」を真正面から受け止め、イエス様のおられるところには癒やしが起こること、聖霊による悪の力に対する勝利が与えられること、そして、私たちの具体的な生活の中に、主の御業が働くことを信じましょう。
今日開いた聖書のお言葉の中で、そこにおられたのは紛れもないイエス様でした。ある安息日、会堂でイエス様は右手のなえた人の手を癒やそうとなさいました。イエス様の癒やしを期待する人々がいる一方で、律法学者たちはイエス様が安息日の律法を犯さないかと見張っていました。しかし、イエス様はそのことを見破り、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、悪を行うことなのか」と問われたのです。
今日、「あなたは何を求めているのか」というイエス様の言葉を受け止めたいと思います。3つのポイントを確認しましょう。
1. 同じ礼拝でも、さまざまな思いを抱いている可能性がある!
律法学者たちは、救い主であられるイエス様を裁こうという思いでイエス様の前にいました。私たちも主を礼拝しながら、それ以外のことに心を奪われていないでしょうか。怒りや憎しみで心がいっぱいであったり、またその後のスケジュールが気になってしまったり・・・。せっかく主を礼拝しながら罪深い思いにならないように、心の中を吟味し、「善なのか、悪なのか」を問い直しましょう。
2. あなたにとって、主キリストはどういうお方ですか?
律法学者たちは、イエス様の欠点やあらを探し出してイエス様を非難し、殺そうとしました。イエス様は、あなたにとっての敵でしょうか。それとも、あなたを救い癒やしてくださる主でしょうか。目の前におられるイエス様を批判や文句の対象としてではなく、救い主、癒やし主として受け入れましょう。
3. 主に喜ばれる最も聖く、善なるもので礼拝しよう!
主の御前に立つときに、私たちは主に喜ばれる者として、聖い心、善なる心をもって最高の癒やしの力を求めようではありませんか。私たちはイエス様に集中して、イエス様、あなたがおられるのですから、最高の癒やしの力を頂きたいです、と祈り求めていこうではありませんか。
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