自分の心に、平和や平安があるでしょうか。聖書には「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」(ルカ2:14)、「イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように』」(ヨハネ20:19)とあります。そのように平和とは「御心にかなう人々に伴う神業」、平安とは「イエス・キリストが心に与える神業」です。
1. 神の愛
世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。(1ヨハネ3:17)
ギリシャ語原典から解くと、「この『世の』財力を『持ちながら』、神の家族である『兄弟が』生活費で『困っているのを見ても』、『愛し合いなさい』という戒めを無視して『あわれみの心を閉ざすような者』のうちに『神の愛が』生きることができるでしょうか」となります。
もし十分な財力のある信徒が、経済的な助けを求める信徒の必要に応えられないなら、「あわれみ」という「神の愛」がその信徒の心の中で生かされず、死んでしまうことになります。
簡単にいうなら、「自分の魂が心を強く支配してしまい、『神の愛』が心の中で生かされず、仮死状態となっている」ということです。
2. 行いと真実
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。(1ヨハネ3:18)
聖書の真理から解き明かすと「信仰で生まれた神の『子どもたちよ』。『私たちは』聖書の私的解釈や行いのない信仰で愛したと主張することはせず、助けると言ったことを『行い』、見せかけでない『真実』の心を用いて、キリストの命令に従い『愛そうではありませんか』」となります。
クリスチャンが行いがちなこととして、「祈っているから安心してね」と言い、祈っていなかったり、必要な行いがあるけれど、口先だけで「信じていれば大丈夫だから」と逃げたりする、互いに愛し合わない偽善があります。
「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコブ2:26)
聖書の私的解釈の言葉や励ましだけで行いのない死んだ信仰は、神の愛がその人の心の内で死んだ状態です。信仰によって行いがあったか、心に偽りがなく真実をもって愛したかなのです。
3. 真理と平安
それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。(1ヨハネ3:19)
真理の御言葉により解き明かすと、「信仰による行いとうそのない真実の愛『によって』、『私たちは、自分が』真理である光の子に属する者であると知り、神の御前に大胆に立つことができることで心に平安が与えられます」となります。
「光の子どもらしく歩みなさい。光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです」(エペソ5:8、9)
「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです」(ヘブル10:19)
「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ4:7)
心に平安があるとは、私たちが①イエスの血により罪贖(あがな)われ、②信仰により大胆に聖所に入り、御前に立つことができ、③世の光である御言葉の真理に属し、自分が御国の光に属していることで、④人の考えを超越した神の平安が心を守っている状態です。
まとめ
私たちの生活に平安があるかないかは、人生にとって重大な問題です。なぜなら、神と自分との関係が良いか悪いかの問題だからです。
神の愛が私たちの心の内にあるかないかは、クリスチャン人生にとって重大な問題です。なぜなら、愛があれば神がおられ、愛がないなら神がおられないからです。それは、神が愛だからです。
憐(あわ)れまれる神は、私たちが隣人を愛し、憐れむことを命じています。隣人の必要を満たしてあげる行いによって、神の愛が世に証しされ、私たち自身も神の愛が内にとどまっていることを知るのです。
神は真実で正しい方です。私たちが行いのある信仰により、真実の心で人を愛するなら、神は真理の中にいる光の子であることを確信させ、私たちの心を平安で守ってくださいます。
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