さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(新約聖書・ヨハネによる福音書9章1~3節)
埼玉県虐待禁止条例改正案から考えてみる
つい先月、埼玉県議会で過半数を持つ自民党県議団が、小学生3年生以下の子どものみによる外出や留守番を禁止する埼玉県虐待禁止条例改正案を提出し、成立の見通しと報じられたことで大騒ぎになり、直ちに撤回される出来事がありました。自民党県議団は説明不足によるものと釈明していましたが、それに納得できない人も多いと思います。改正案に反対する多くの意見は、「一人一人に寄り添うことをせず、相互監視で乗り切るような内容だ」というものであったようです。
自民党県議団は、「私どもの県議団は若い世代が多くて、現に子育て中の議員もいるので、しっかり周りの声を聞かせていただいてきた。(改正案と現実の間に)乖離(かいり)があるとは考えていない」などと話していました。しかし、改正案の撤回に関する説明で、子育てを「オペレーション」と呼ぶこと自体が、現実と乖離している証拠だろうと思わざるを得ません。
子育ては「オペレーション」ではない
「オペレーション」という言葉を使ったのは、「ワンオペ」(ワンオペレーション)という言葉が広く使われるようになってきたからかもしれませんが、そこには「子育てを子育てと言えない」環境になってきていることが示されているのだと思います。地域や社会の中で「子育ては大人にとって(ある意味、親にとっても!)一種の労働」であると捉えられている向きが見て取れます。
「ワンオペ育児」なる言葉が出回っていますが、オペレーションという言葉はそもそも「運用、操作、運転、作戦、戦法」などの意味が当てられる言葉です。子育ては「オペレーション」などではありません。
「子育て=ハイリスク、ハイコストの重労働」というイメージが蔓延している状況では、こども家庭庁が掲げる「こどもまんなか」も虐待防止も絵に描いた餅と言わざるを得ません。
親が変わりさえすれば国は良くなるのか
実は気になる情報があります。今回の改正案が出た埼玉県では「親学」なるものが推奨されているようです。親学とは、現在は麗澤大学で特別教授をされている高橋史朗氏が提唱したものです。障害者ドットコムというサイトによると、「伝統的な子育てを体系付けて親に学ばせることで教育の質を上げる」という主旨のものだそうですが、「親学に基づけば発達障害(現代ではこの呼び名は公的には使われません)は治せる」とまで豪語していたことがあるようです。
こうした発想の大きな罪は、全ての諸悪の根源を親に押し付けるところです。「親が変わらなければ子どもは良くならない」、さらに「国が良くないのは親のせい」とまで発想が延長していってしまいます。そして何よりも「家族の在り方」が断定的に語られるようになってしまいます。
自己責任論で分断された社会の中で
現に日本では、「子育て=ハイリスク、ローリターンのオペレーション」という認識が頭をもたげてきています。「優秀な子」を育てるためのノウハウがネットや書籍にあふれている現代にあっては、「子育てには社会に有用な人材の育成が求められる」という目に見えない圧力が、親に強迫的に忍び寄っています。
それは、「自己責任」という言葉にその端を発しています。「子どもを産むのも、育てるのも自由だが、その自由を行使するのであれば責任を持て」というのが、最近の風潮に見え隠れします。そして、「子育ての失敗は全て自己責任」「そんなんだったら、子どもなんか産まなかったらよかったのに」というように言論は先鋭化していきます。それを受ける親の側も「私の自己責任でやっているのだから、とやかく言うな」と反発する不幸な関係になってしまっています。
しかし、子育てというのは「個育て」ではありませんし、なおさら「孤育て」でもありません。子育てとは「社会の根本」です。というのは、2人の男女の間に生まれた命を育み続けるために、社会は存在し、成長してきたからです。
社会性の不在という魔物
動物愛護管理法では、「生後56日を経過しない犬または猫の販売、販売のための引渡し・展示をしてはならない」と定められています。以前は、生後1カ月くらいの一番かわいい時期に展示・販売するのが当たり前だったのに、生後2カ月は親元に置いておかなければならないと法律で定められたのには、それなりの根拠があります。
その根拠とは、社会性です。犬や猫は親元やきょうだいの中で社会性を身に付けるため、その機会を奪ってはならないということです。犬は生後3~12週、猫は生後2~7週が、社会性を身に付ける上で最も大切な時期だといわれています。生まれてから少なくとも2カ月は親元にいることが、より健康で性格の安定した犬や猫となるためにとても重要なのです。
子育てをする多くの生物は、この「子育てされる期間」に獲得した社会性によって、その後の生涯を維持していくことになります。このバランスが崩れると、ネグレクトや殺害などが起こることは、生物学界では広く知られています。
社会性が失われていく現代にあって
「犬や猫、その他の多くの生物がそうなら、人間はどうなのか」という問いが頭をもたげます。当然のことながら、社会性を身に付けることは人間にも必要です。しかし現代は、社会性が急速に失われている状態であると多くの人たちが指摘しています。親は過度のストレスにさらされ、多くの人が細かな所作まで適・不適の両極端な基準と結果論に振り回されている一方で、子どもたちは大人から向けられる「欲望」に絶えずさらされている状態であるともいえます。
現代社会における子育ての苦悩というのは、親を含む社会そのものが直接的に関わり、増大させているのです。子育てを「オペレーション」と表現する現代日本は、子どもたちの存在に対して、メソッドや法律などによって対応しようとしています。そういう意味においては、虐待は既に個人や世帯の問題ではなく、社会の問題として扱われるべきだと私は考えています。
子ども食堂によって見えてきた課題
近年、全国で子ども食堂などを通して社会性の再構築を実践しようという取り組みがあることは、ご承知の通りです。食堂の機能を活用し、孤立してしまいがちな人々の交流の場とするのです。
大都市部を中心に、現代社会はシステム社会とも呼ばれ、寄り添う基準も「損得勘定」「個人主義」による分断が起こっています。これらは、大人になってからの修正は難しいと言わざるを得ません。だからこそ、0〜6歳の未就学期間にその部分に対する十分な実践が必要だということです。この時期に、多くの世代に出会い、関わり、愛されていることを知ることは、これからの国や社会の大切な基礎を形作っていくことになるのです。
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