その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう」(黙示録4:1)
「掘った芋いじるな」と言えば、英語のネイティブスピーカーには「What time is it now?」と聞こえるそうです。明治から大正にかけて米国に移住した日系人たちは、英語の基礎知識もなく、英文法も知りませんでしたので、空耳英語に頼るしかありませんでした。
朝起きたら「morning」と言っているみたいだけど、朝だから「もう寝ん」だろうと覚えたそうです。教科書英語では「モーニング」ですが、日系人は「モーネン」と言いました。よりネイティブの発音に近いのは日系人です。水は「ウォーター」ではなく「ワラ」です。「藁(わら)」でカバーしたからワラと覚えたのです。でも、彼らの英語はすんなり通じるのです。
ある日系人は、なかなか英語を覚えられなくて困っていました。街中で道路に飛び出そうとしている白人男性を見かけて、思わず日本語で「危ない」と叫んでいたそうです。その声で、男性はわれに返り、難を逃れました。「アブナイ」が「Have an eye」に聞こえたというのです。この出来事を通して、2人は仲良くなったそうです。
日本人で最初に空耳英語にチャレンジしたのは、ジョン万次郎だといわれます。万次郎は太平洋を漂流中に米国の捕鯨船に救助されますが、空耳英語を駆使してコミュニケーションを図り、英語が上達し、米国で高等教育を受けさせてもらえるまでになったのです。
S氏は鹿児島のある地方の出身なのですが、家庭環境に恵まれず、周囲と良い人間関係を築けませんでした。高校を卒業したら、外国航路の船乗りになる道を選びました。必死に仕事に打ち込んだのですが、心にある孤独感がなくなることはありませんでした。
ハワイの港に立ち寄ったとき、休暇が与えられて街をぶらぶらしていました。教会の前を通りかかったとき、中から賛美歌が聞こえ、吸い込まれるように教会に入っていきました。「I surrender all to Jesus」を歌っていたのですが、彼には「アイサレンダーオールが愛されているんだ」と聞こえたそうです。「自分は愛されているんだ」と思ったら、心が熱くなり、涙が止まらなくなったそうです。
その教会の牧師が東京にいる宣教師と連絡を取って、聖書通信講座を受けることができるようになり、船の中で聖書の勉強をしたそうです。後に、彼は洗礼を受け、クリスチャンになりました。素敵な女性と出会い、結婚し、孤独に悩んでいた日々がうそのようですと笑っていました。しかし「愛されているんだ」という言葉は時々浮かびますと話していました。
これは、私が初めて米国を訪問したときに起こった出来事です。教会の青年グループと共にシアトルの空港に到着したのですが、乗り換え便の手違いなどがあり、出迎え予定の人とも連絡が取れない状況でした。大きな不安がありましたが、空港のロビーで輪になり、祈っていました。そうすると、私たちの背後で米国人のご夫婦が一緒に祈っていてくださいました。
彼らは「日本語は分かりませんが、あなたがたが困っていることは感じました。祈りましたから、もう大丈夫ですよ」と声がけしてくれました。実際その直後、問題が解決しました。
今や日本全国に英語教室や英会話スクールがあり、英会話の勉強には困らない状況です。日本で最初に英会話スクールが開かれたのは、なんと鹿児島だということが分かりました。
ジョン万次郎は、救助してくれた船長の養子となり、高等教育まで受けさせてもらっていました。米国で生活していくのに何の心配もなかったはずですが、日本への望郷の思いが募り、帰国を試みます。その頃の日本は鎖国していて、外国船打ち払い令まで出ており、うかつに近づくことはできませんでした。
琉球の港なら入港しやすいという情報を得て、琉球に向かいました。上陸してから、奉行所に出頭し、事情を説明しました。その当時、琉球は薩摩藩が管理していましたので、薩摩に引き渡されました。薩摩では取り調べという名目のもと、3カ月留め置かれました。そして、藩主島津斉彬の西洋事情に関する聞き取り、藩校では若者への英会話スクールが行われました。その中には、後の家老となる小松帯刀や篤姫も含まれていたのです。
3カ月という短い期間でしたが、西洋世界の事情を知ること、英語という外国語に触れることは、若者たちに大きな刺激となり、後に密航してまで英国に留学生を送り込む布石となったのです。私たちが人生で体験すること、世の中の事象、その全てにつながりがあるということは不思議ですが、必然のことかもしれません。
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」(1コリント2:9)
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