エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」私たちの神、主の家のために、私は、おまえの繫栄を求めよう。(詩篇122:6〜9)
世界の歴史を見ていると、はっきりと分かる史実があります。ユダヤ人を迫害した国は滅び、助けた国は繫栄しているということです。ユダヤ人を捕囚の民として苦しめたアッシリアとバビロニアは滅びました。7つの海を支配するといわれたスペインも、ユダヤ人迫害が起こってから衰退していくようになりました。
スペインにいたユダヤ人の金融業者は、英国とオランダに移り、ロンドンとアムステルダムが世界の金融の中心部に発展していきます。後に、ユダヤ人金融家がニューヨークに集まったので、ニューヨークが金融の中心地になりました。
ナチス政権が台頭していた欧州に居場所を見いだせなくなっていたユダヤ人は、東の方に道を求めました。その時に、命のビザを発給して5千人以上のユダヤ人を救ったのが、外交官の杉原千畝です。シベリアと満州の国境線で凍死寸前だった2万人のユダヤ人に救いの手を差し伸べたのが、樋口季一郎中将です。これらのユダヤ人たちは日本に向かいますが、米国での受け入れが整うまで、神戸のクリスチャンたちがホームステイ先になったのです。
大東亜戦争は1945年8月15日に日本政府が無条件降伏し、終戦を迎えました。ところがこの2日後に、ソ連のスターリンは北海道奪取をもくろみ、攻めてきました。この時、樋口中将は千島列島の占守島にいて、武装解除の手続きをしていました。しかし、武器を取り、部下たちと共にソ連兵を撃退し、北海道を守りました。
樋口の行為にスターリンは激怒し、A級戦犯として捕らえ、絞首刑にするよう要求しました。しかし、世界中のユダヤ人が立ち上がり、樋口の助命嘆願運動をしました。その結果、樋口がA級戦犯として捕らえられることはなかったのです。
日本ではユダヤ人が迫害されることもなく、差別されるようなこともありませんでした。日露戦争の時、ロシアにいたユダヤ人たちは強制的に徴兵され、従軍していました。しかし日本は、ユダヤ人だけの捕虜収容所を作り、収容所でのユダヤ教の礼拝を認め、必要な設備は神戸の会堂(シナゴグ)から取り寄せていました。また、十分な食べ物も用意し、厚遇していました。ユダヤ人たちは「自分たちは母国ロシアにいたときでさえ、自由に礼拝できなかったのに、日本では自由にできる」と喜んでいたそうです。
応神天皇の時代、3世紀に、弓月君に率いられたユダヤ系ともいわれる秦氏が大挙して日本を訪れました。養蚕、機織り、土木、建築などの優れた技術をもって朝廷に仕え、産業革命をもたらします。この時と同じようなムーブメントを起こしてもらえないかということで、戦前、満州の一角にユダヤ人国家を造ろうとした動きがあったそうです。しかし、日独伊三国同盟が結ばれ、実現には至らなかったようです。
日本とユダヤは共にシュメール文明の影響を受け、縄文時代から続く、深いつながりがあるのではないかと思います。熊本の南小国町に中原という地域があります。ここには人為的に配置されたと思われる大岩があるのですが、約4千年前のシュメール文字がペトログラフ(岩刻文字)として刻まれています。
ここの地名の中原(なかばる)は「ナーガ(蛇神)」と「バール(聖牛)」というシュメール文字の名残だといわれるのです。イスラエルであれほど嫌われていたバール信仰はシュメール由来ということが分かります。
日本に渡来人として来ているユダヤ人は、北王国イスラエル系の方が南王国ユダ系より多いように思います。北王国では神殿で馬を飼っていましたが、日本の神社でも馬を飼っているところがあります。バール信仰は北王国で盛んでしたので、その風習を日本にまで引っ張ってきたのか、それとも直接、シュメールから来たのか分かりません。日本とユダヤはいろいろな意味で似ている兄弟みたいだというのは言い過ぎでしょうか。
北王国イスラエルはアッシリアが侵攻してきて、もう二度と再建できないほど完全に破壊されました。王族の流れを持つ人々が東の果てを目指し、そこで新しい王国(ヤ・マト、神の国)を建立しようとしたと想像を膨らますのは、私の妄想かもしれません。
神社巡りが好きな人がエルサレムにたどり着いたとか、ユダヤ人が伊勢神宮に行ったら、とても懐かしいホッとした気持ちになったという話を聞くのは、偶然なのでしょうか。この日本の地に生まれた誇りを大切にし、エルサレムの平和を祈ることで、祝福が与えられます。
しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。(ヘブル12:22)
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