指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。(箴言11:14)
早朝フロリダ州に住む米国人からテレビ電話がきました。彼の奥様は子ども時代、東京にいたということで、少し日本語が分かります。ワシントンで盆栽展が開かれているらしいのですが、テレビのレポーターが「バンザイツリー」と叫んでいて、間違った日本語を使ってとんでもないと奥様が怒っているとのことでした。
今、米国で盆栽ブームが起こっていて、熱心な人は日本まで買い付けに来るらしいです。小さな鉢の中に植えられて、ちゃんと根を張り、しかも美しい姿を保っているのは芸術であり、神秘だというのです。盆栽は地球のミニチュアであり、小宇宙を表すという人もいます。
米国人には BONSAI が BANZAI に聞こえても仕方がないのかもしれませんが、日本語が分かる人からすると許せないのでしょう。日系人に聞いてみると、BANZAI TREE と覚えている人の方が多いらしいです。
今日の米国は、保守とリベラル左派が対立し、国内が分断の様相を呈しています。現政権が移民容認政策をとったため、数十万の難民がメキシコとの国境に押し寄せ、収拾がつかなくなっています。その中には数千人の中国人も含まれているそうです。中国からトルコに渡り、トルコからグワテマラに入国。ジャングルを2週間歩き、メキシコに到達しているようです。
米国に不法入国したら、警察官か移民局の係官を探して不法入国したと告げれば、逮捕されずに移民局に移送され、そこで難民申請をすれば受け入れてもらえるというのです。国境周辺に住む人々は不安を抱え、日常生活にも支障を来しているそうです。
私の昔のイメージでは、米国といえばキリスト教国でした。しかし今では、日曜日に礼拝に行かない人の割合が高いといわれます。国内の宣教活動が大きな課題になっています。
そして若い世代の中には、キリスト教社会に頭打ちを感じ、東洋思想に引かれていく人も少なくないといわれます。曹洞宗の禅センターがロサンゼルスにあり、大勢の人が座禅に訪れています。ここで仏教を学び、功徳を積み、出家する人も少なくないといわれます。全米各地に寺院も建てられているそうです。
日本は仏教の国というイメージがあるようで、その背景の中でどうして牧師になったのかとよく聞かれます。仏教社会の中で少数者として生きている日本のクリスチャンは、とても強い存在に見えるようです。
今日の世界は、リーダーシップ不在といわれるようになって久しいです。緒方貞子さんが高等弁務官をしているときや、明石康さんが国連事務次長を務めているときは、日本人の働きぶりに世界中が感嘆していました。
最近、フランスでも日本ブームが起こっているといわれます。日本食の繊細で芸術的な盛り付けに驚嘆するだけではなく、みそ、しょうゆ、かつお節、昆布など、味付けの根本に関心が高まっています。さらに、着物や日本文学も注目を浴びています。
今の時代に新渡戸稲造が生きていたら、世界中から引っ張りだこだろうと思います。後世に生きる私たちがその精神を学び、リーダーシップを持って世界に臨むしかありません。
私は人類回流論に立っています。大昔、人類はアフリカや中東から東を目指して旅をしました。それは、植物が太陽の方向に伸びていくように、日の出の方向に歩いていったからではないでしょうか。
最終的には東の果ての島、日本に到達し、そこが日出づる国と呼ばれるようになったのではないか。日本には世界最古の縄文文化があります。爆発的な火山噴火のためにいったん世界各地に散らされますが、各地の文化と宗教を携えて帰還してきます。
そして、文化の集結と熟成があったのではないでしょうか。だから、日本文化はどこに持っていっても評価され、適応していくのではないかと思います。
国際的な紛争の火種や引き金に、宗教が挙げられることがあります。宗教者自身が手を携えて平和のための話し合いができれば、紛争解決に少しでも貢献できるのではないかということで、1970年に京都で第1回世界宗教者平和会議が開催されました。
このときに主導し、事務局も引き受けたのが立正佼成会でした。これに仏教界、神社本庁、カトリック、プロテスタント教会が協力して、イスラム教徒も加えた平和会議の場が設けられたのは画期的なことです。私は、日本の地で行われたから第1回が成功したと思っています。この後は世界各地で開催されています。バチカン主導による宗教者会議もローマで定期的に開催されています。
日本のクリスチャンは少数派ですが、霊性が高く行動力があります。また、仏教も神道もイスラム教徒も、日本の地では協力的です。特に仏教の方々は、語り合えば積極的に力になってくれます。聖徳太子の「和を以て貴しとなす」の精神が生きているのではないかと思います。日本の宗教界を束ねて、世界に発信していくのにふさわしいのはクリスチャンのリーダーではないでしょうか。
よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。(1テモテ5:17)
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