私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。・・・それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(詩篇90:10〜12)
インターネットの情報番組を見ていたら、辺境の地に住んでいるフィリピンの山岳民族が紹介されていました。全てを自給自足しているということでしたので、理想的な生き方かもしれないと思いました。
レポーターが病気のときはどうしているのかと聞くと、山中に自生している薬草を見つけているということでした。それでも手に負えないときはどうするのか問うと、驚きの答えが返ってきました。遠くの町まで行くと病院があるが、お金がかかるから行かないというのです。
薬草で治らない病気にかかったら、これまでの人生だったと思って観念するというのです。そして、これまで支えてくれた方々の所を訪ねて、感謝して回るそうです。私は彼らの達観した死生観に驚愕(きょうがく)しました。
自分が亡くなったときに、棺を運ぶ人に少しでも負担がかからないようにダイエットに努めるとか、葬儀保険にでも入っていた方がいいのかなあと思ったことがあります。それを聞いた友人の一人は「亡くなったときくらい、周りの人に甘えてもいいのではないのですか」と言ってくれました。それを聞くと少し気持ちが楽になります。
これは還暦を迎えた一人の女性の体験ですが、この方は自分の周りの個人的な家財道具、衣類、荷物をほとんど全部処分して、大きなトランク一つにまとまるようにしたそうです。そうしたら部屋がとても広くなり、心身も調子が良くなったそうです。物を捨てることで得るものは多かったと話していました。
実はこの日本では、死ぬことも大変なことです。医者の診断を受けられない所で亡くなりますと、全て不審死扱いになりますので、警察の捜査を受けなければなりません。鹿児島には医者の常駐しない離島があります。この離島に住む方々は死期が迫っていることを感じたら、急いで島を離れ、鹿児島市内の病院に入院します。
そのための移動の費用、付き添いの家族の費用などがかかります。死ぬということは、大きなお金のかかることだと嘆いています。せめて島に常駐している保健師さんが死亡診断をできるようになったらいいということで、政府に法律改正を請願している人もいます。
3年間も続いたコロナ渦では、亡くなっていく人々を見送ることのできない寂しさやつらさを味わいました。危篤状態の人のために祈りたいけれど病院に近づくこともできないというのは、初めてのことだったと思います。葬儀をすることもできないとか、賛美歌を歌うことも許されないという異常なことばかりでした。
親戚の人が亡くなっても、訪ねて来ないでくれと言われますととても哀しい気持ちになりました。愛する家族や友人と最後のときを過ごし、見送れるというのは、とてもありがたい体験だと思い知らされました。
量子力学を学んでいる人の中には、私たちの現世とパラレルワールドは対になっているという説を唱える人もいます。この現世の人物が亡くなっても、対の世界の人は生きているというのです。だから本当の意味での死は存在しないという説です。
キリスト者の表現をするなら、現世と天国はつながっているということになるのではないでしょうか。たとえ肉体は滅びても、魂は存在しますので、死を克服していることになります。
信仰の世界において大切なことは、主なる神様としっかりとつながっていることです。天地宇宙を支配しておられる神様と関係があるなら、肉体が滅んでも、必要であれば新しい体が用意され、復活できることになります。ですから、死は一時的な別れであり、再会できるという希望を持つことができます。
SNSを用いている人は、自分が亡くなったらアカウントを消去してもらえるように専門家に依頼している人もいます。もちろん、家族や友人でもパスワードが分かれば消去できますが、ほとんどの場合、そのままになっています。
米国ではフェイスブックのアカウントをあえてそのままにしている家族がいます。その方々の言い分は、魂は生きているから、返信はできないけれども見ているはずだというのです。そして、亡き家族の誕生日には故人のSNSにメッセージを送っているようです。
主イエスは十字架が近づいたとき、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて高い山に登り、そこで御姿が変貌し、モーセとエリヤと会い、会話されました(マルコ福音書9章参照)。これは肉体が亡くなっても再現できることの象徴的な出来事です。全ての信仰者にこのような可能性があると言えるのではないでしょうか。
亡くなった方々も魂は生きていますので、意識はつながると思います。だから亡くなったからといって忘れるのではなく、思い出し、語りかけることも必要だと思います。誰からも思い出してもらえず、忘れ去られるのが一番悲しいのではないでしょうか。
エルサレムのアウシュビッツ記念館では、収容所で亡くなった150万人の子どもたちの名前を毎日読み上げています。名前を呼んでもらうだけでもうれしいのではないでしょうか。
私自身が望んでいることは、人生の最期の瞬間に延命措置などしないで自然に任せてほしいということです。もちろん痛み止めなどの処置はしていただけたら助かりますが、自力で食べられなくなったら、寿命が尽きた時だと理解しています。
胃袋に管をつないで食べ物を押し込むなどはもってのほかだと思っています。クリスチャンにとっての死は、天国への凱旋だと信じています。この世に生を受けて一番の恵みは、聖書に出会ったこと、キリストを信じる信仰を与えられたことです。
もちろん産み育ててくれた両親には何よりも感謝しています。人生の幕引きは予期しないときに起きることが多いですが、最後に感謝の言葉を伝えることができたら、それで十分です。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(2テモテ4:8)
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