米ケンタッキー州ウィルモアにあるアズベリー大学が、深く重厚な聖霊の臨在の伴うリバイバル※に湧いている。同大は、ウェスレアン・ホーリネスの伝統に根差した超教派の大学だ。(※「リバイバル」の厳密な用語の定義は、キリスト教国におけるキリスト信者の信仰復興を指すが、近年は、異教国での異教徒らの集団改宗を指す場合にも使われる。いずれにしても、回心を伴う目覚ましい聖霊の傾注を指して使われることが多い)
事が起きたのは8日水曜日の朝、ヒューズ記念講堂で行われた定例の礼拝後のことだ。学生たちは、毎学期一定数の礼拝出席が義務付けられているため、日課のようにチャペルに顔を出す。
しかし、この日の礼拝はいつもと違っていた。祝祷の後、聖歌隊が歌い始めると、説明し難いことが起こり始めた。静かな、しかし力強い超越した感覚に打たれ、生徒たちは帰ろうとはしなかったのだ。そして、彼らはそのまま残って礼拝を続けた。
いつもとは違うただならぬことが起きているのを聞きつけた関係者や教授たちは、自分の目で確かめるためにチャペルに向かった。そこでは、何百人もの学生が静かに賛美を歌っていたのだ。ある者は聖句を読み、またある者は手を上げて祈り、ある者らは小グループに分かれて一緒に祈っていた。
ある者は講堂の前方にある聖壇の前でひざまずき、認罪に打ちひしがれ、ある者はひれ伏し、ある者は喜びで顔を輝かせながら互いに語り合っていた。彼らは自分自身と隣人、そしてこの世界のために真剣に祈り、癒やしと完全性、平和と正義のためにとりなしていた。
人知を超えた深い臨在の中、賛美と祈り、告白、証しの礼拝は絶え間なく続き、翌日の木曜日夕方には、周辺や他の大学からも学生が集まり始めたのだ。
金曜日は一日中、そして夜まで礼拝が続き、土曜日の朝には定員1500人の講堂は空席を見つけるのが困難になり、夕方には定員を超えるほどに人であふれた。毎晩、礼拝堂に残って祈り続ける学生や関係者もいた。
先週の水曜日から140時間を超える今も、SNSによる拡散も手伝い、近隣のみならず遠方からの訪問者も巻き込み、ヒューズ記念講堂には礼拝者が後を絶たないのだ。
実はこのアズベリー大学は、歴史的に度々リバイバルを経験している。1905年に起こったリバイバルや、2006年に起こった学生チャペルでの4日間にわたるリバイバルでは、礼拝、祈り、賛美が絶えなかった。中でも有名な1970年のリバイバルでは、1週間授業が停止され、その後2週間、毎晩礼拝が行われた。
この時、何百人もの学生が起こったことを他の学校や学生たちに証しし、共有するために出かけたのだ。70年のリバイバルを経験したある関係者は、この2023年のリバイバルも、その時のリバイバルに似ているという。
集会は、誘導や動員などの人間的な操作がなく、圧倒的な聖霊の臨在に導かれている。アズベリー大学の分析神学者のある教授は次のように証言する。
「私は誇大広告を警戒し、人為的操作に非常に慎重です。私のバックグラウンドは、メソジスト・ホーリネス派の伝統の中でも特にリバイバル派の出身で『リバイバル』や『聖霊の動き』を作り出そうとする努力を見てきましたが、それは時に空しいだけでなく、有害でもありました。私はそのようなことに関わりたくはありません。
いやしかし実を言うと、今目の当たりにしているのは全くそのようなものではありません。圧力も誇大広告も、人間の操作もなく、高慢な感情移入もないのです。人々は時間がたつのを忘れ『まるで、天と地がつながり、有限の時間と永遠が混ざり合って両者の境界がないようだ』と口々に証言するのです。
起きている光景を目の当たりにした人々は、何か普通では考えられないようなことが進行していることに同意するでしょう。それどころか、実はほとんど穏やかで平穏な日常を過ごしています。希望と喜びと平和とが混ざり合い、何とも言えない力強さがあり、実際、ほとんど手に取るように分かるのです。
『シャローム(主の平安)』が鮮やかで信じられないほど力強い感覚です。聖霊の働きは、紛れもなく力強いのですが、同時にとても優しいのです。三位一体の神の聖なる愛が明らかであり、そこには言いようのない甘美さと生来の魅力があるのです。なぜ誰もここを去りたくないのか、あるいは、去らなければならない人ができるだけ早く戻ってきたいのか、それはすぐに分かります」
「私は、神が神秘的な方法で働くことを知っています。そして時々神は、ジョナサン・エドワーズが『驚くべき働き』と呼び、ジョン・ウェスレーが『尋常ならざる』ミニストリーと呼ぶようなことをなさいます。
キリスト者の生活において重要で不可欠なことの多くは、日々の平凡な歩みや典礼、義を求める瞬間の決断、隣人への犠牲的な愛の行為、静かな絶望の中で呼吸する祈りなど、信者のなんでもない信仰生活に起こっていると堅く信じています。
私は、これらの『尋常ならざる』神の御業は、御言葉と典礼を通した聖霊の『平凡な』働きに取って代わるものではないことを知っています。同様に、神の『驚くべき』働きは、弟子としての長い道のりに取って代わるものでもありません。もしそうであれば、私たちは、体験を恵み深く与えてくださる聖霊よりも、体験そのものに支えられることになります。
しかし私は、このような聖霊との驚くべき出会いを喜んで認め、祝うべきであると信じています。主は『義に飢え渇く』者は満ち足りると約束しておられ、また『もう一人の慰め主』を遣わすとも約束され、実際、主が去って御霊を遣わすことが私たちにとって益になるとも言われました。
この数日間、ヒューズ記念講堂で過ごした人なら誰でも、この約束された慰め主は実在し、力強いことを証言することができます。私は、起こっていること全てを分析することはできませんし、適切に説明することもできませんが、神が存在し、力強く活動されていることには、何の疑いもありません」
1970年のリバイバルでは、ある牧師がアズベリー大学の2人の教員に対する嫌悪感を持っていたことを、涙ながらに公にして告白し、彼らの許しと神の許しを請うた。また彼の妻の牧師夫人は、町の人々と夫である牧師の働きに対して何年も隠していた嫌悪感と不満を懺悔して打ち明けた。しかし、この告白と悔い改めを通して、苦々しい思いは完全に愛に取って代わったのだ。
圧倒的な臨在の聖さに触れられるとき、人々は自らの絶望的な罪深さに、転げ回るようにして身悶(もだ)える。そのような苦悶の果てに、罪人はさんぜんと輝く十字架の贖罪の奇跡を体験する。
リバイバルにおいては、必ず教会と社会の双方を祝福するような実が結ばれてきた。かつて、欧米のキリスト教国がリバイバルに燃えていた時代、信心深さや敬虔であることは美徳であり、敬意の対象であり、社会全体でそれが共有されていた。
近年の欧米、特に米国社会において分断の溝は深まる一方だ。それは見方を変えるなら、キリスト教信仰が輝いていた時代の求心力を失っていることの証左といえよう。信仰が斜陽に傾く時代、神はご自身の民を憐(あわ)れみ、いつの時代もリバイバルの火を投じてくださった。
実はこのリバイバルの背後でもう何年も前から、在校生と最近の卒業生の何人かが、信仰が去りつつある米国の現状を憂いて力強い神の訪れを求めて祈っていたという。彼らは今起きていることを見て、言葉にできないほど感激しているそうだ。
キャンパスの名も無い小さき者らから始まったこのリバイバルが飛び火し、米国社会の分断と傷が癒やされ、彼らがもう一度「信仰のアメリカ」を取り戻すことができるよう祈ろう。このリバイバルが継続し、米国にとどまらず世界的な覚醒となるように祈っていただきたい。
■ 米国の宗教人口
プロテスタント 35・3%
カトリック 21・2%
正教 1・7%
ユダヤ教 1・7%
イスラム 1・6%
無神論 16・5%