やがてドイツにアドルフ・ヒットラーを党首とするナチス独裁政権が誕生し、海外への侵略を開始すると、瞬く間に戦火はフランス、バルカン、北ヨーロッパ、ロシアへと広がっていった。ドイツは侵略をほしいままにし、1929年にはドイツ国内も次第に戦場と化していった。こうした状況の中でも、ケーテは生活苦と闘いつつ、制作を続けていた。しかし、心の中にある不安は次第に増大してゆくのだった。
(今にまた戦争が起きるのではないか?)彼女は予感した。ペーターを亡くした以上の大きな苦しみに直面する日がもうすぐにやってくるのではないかと思われた。制作は思うようにゆかず、1930年に『おしゃべり』、その翌年に『家族』『父』『母』を制作したのみだった。
1932年。ロッジヴェルドに無名戦没者記念碑が建てられることになり、ケーテがアカデミーに出展した彫刻『父』と『母』を墓前に供えた。
(ペーター)と彼女は息子に語りかけた。(お母さんはもう65歳になりました。でもそれだけ天国で安らっているあなたと会える日が近くなったことがうれしいわ。でも、これから私たちは最大の試練を乗り越えなくてはならないの。ナチスという悪魔の軍隊が作った溶鉱炉を渡らなくちゃならないのよ。どうか天国から守ってね)
1933年。ケーテが予感した通り、本当の地獄がやってきた。ナチス政権が確立したこの年の2月28日。アドルフ・ヒットラーより緊急指令が出された。「保護拘禁」という法案が採択され、直ちに実行されたのである。これは、反戦思想を持つ者、およびナチス政権に対して批判や抗議する者は親衛隊の手により片端から逮捕、投獄すべし――という恐るべき法案だった。
この時から社会主義的傾向を持つ読み物、新聞、雑誌を発行している者全てが「治療」と称して作られた強制収容所に連行されていった。コンラードが属していた「フォアヴェルツ紙」も親衛隊によって摘発され、幹部だったコンラードも逮捕された。社会主義的傾向を持つ他の新聞、雑誌も同じく手入れされ、跡形もなく一掃された。
「コルヴィッツさんですね。これを兄上からお預かりしています」。その日、コンラードと一緒に「フォアヴェルツ紙」で働いている部下のフリッツ・レーマンが一通の手紙を持ってコルヴィッツ家を訪れた。レーマンは家族を連れてオランダに亡命する直前だった。
「ベルリンは、そしてポーランドは悪魔の手に落ちました。どうかあなたのご家族が無事で毎日過ごされますように」。そう言って、彼は夫妻と握手をして、家族と共に旅立っていった。
「ヒットラー万歳!」その時、遠くから群衆の声が上がった。ヒットラーとナチス親衛隊が中央通りをパレードしているのだ。ケーテは兄からの手紙を開いた。
「ケーテ。運が良ければ釈放されるかもしれないが、今の状況を見ると、それは難しそうだ。それで私はおまえにこの恐るべき情報を伝えたいと思ったのでペンを取った。レーマンが運良く国外追放処分になったので、彼にこの手紙を託すことにする。私はベルゼンに取材に行って、現地からこの情報を得た。狂った愛国者ヒットラーは、ヒムラー他数名のナチス親衛隊長の手によりドイツ国内に次々と強制収容所を作った。そこには、ヒットラーが劣等民族と断定したユダヤ人が、また就労に適さない虚弱な身体をしているとされるロシア人やポーランド人が送り込まれている。彼らはこの収容所で強制労働をさせられ、痛めつけられ、飢えや過労で動けなくなると、ガス部屋に送られ殺されるのだ。
私は今、ベルリン市内の『再教育のための施設』――言ってみれば強制収容所と何ら変わりのない、社会主義者を洗脳するための施設で毎日取り調べを受け、学習をさせられている。この悪魔のような弾圧に対しては、こちらも悪鬼のような意地をもって対峙するしかない。ここには同じように逮捕された反ナチスの分子たちがつながれている。今のところ私は暴行を加えられたり拷問されたりするようなことはないので安心してほしい。でも、もう会えないかもしれない。さようなら、ケーテ。でも、いつかおじいさんが言っていたように、試練は希望を生み出すことを信じよう。悪がいつまでも続いたためしはないのだから。おまえと家族に心からのあいさつを送る。 おまえの兄コンラード」
それから3週間後。ナチスの本営から、コンラードが収容所内で、急性肺炎のため死去したとの知らせが届いた。
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<あとがき>
ナチス・ドイツの政権のことを「悪魔の政権」と呼んだ人がいました。実に、神を知らない政治団体が暴走したとき、どんなに恐ろしい悲劇をもたらすかは数々の歴史上の事実が教えています。
ケーテは鋭い感受性によって近く再び戦争が起きるのではないかという予感を覚えていました。果たして、1933年2月。アドルフ・ヒットラーを党首としたナチス政権が誕生しました。これはまさに、世界中を恐怖のどん底に陥れるものでした。
そして、魔の手はケーテの家にも忍び寄りました。真っ先に犠牲になったのはケーテの兄コンラードでした。「フォアヴェルツ紙」の責任者であった彼は、今までにも軍国主義の危険性について警告を発し続けていましたが、ついにナチス政権が誕生すると、その社会主義思想故に弾圧され、ナチス党内の「教育のための施設」に送り込まれました。ここは彼が言うように「強制収容所」であり、やがて彼はこの中で死去したのでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。