まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:4、5)
先日、結婚式の司式のために、鹿児島市から高速船で屋久島に向かいました。世界遺産である屋久島の風景はどこに行っても素晴らしく、心も落ち着きました。結婚式の会場であるセンバスビレッジは、香料の栽培や抽出などを行っている自然農園です。全国の不登校の高校生を対象にした通信教育による青空学校の運営など、ユニークな活動をしています。
センバスビレッジに展示してある蘭奢待(らんじゃたい)のレプリカと沈香木(じんこうぼく)に関する説明文を読んで、私の頭の中は、イザヤ書にあるキリストの打ち傷に関する預言の言葉でいっぱいになりました。
沈香木は、亜熱帯から熱帯に生息するジンチョウゲ科ジンコウ属の植物で、病気や害虫、風雨によって木部を傷つけられたとき、防御するためにダメージ部の内部に樹脂を分泌し、それが長い年月の間に蓄積されて香木となっていくと書いてありました。原木は、比重が0・4と非常に軽いのですが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになります。これが「沈香」の由来になっているそうです。
沈香は、強壮、鎮静などの効果のある生薬でもありますが、熱して香りを放つと、うつなどに効果があるといわれます。私はこのような説明文を読みながら、私たちの身代わりとしてむち打たれ、十字架にかけられたキリストを思い浮かべていました。
香木のことは、日本書紀にも登場しています。推古天皇3年(595年)に淡路島に漂着した沈香を、朝廷に献上しています。また、正倉院の宝物の中には長さ156センチ、最大径43センチ、重さ11・6キロという巨大な蘭奢待が納められているようです。これを削り取ったのは、足利義政、織田信長、明治天皇の3人だけだといわれています。
この蘭奢待のレプリカが、センバスビレッジに展示してありました。ジンチョウゲの種子を屋久島のビニールハウスで発芽させて自然の中で成育させ、100年後に沈香ができるように京都大学薬学部と協力していくという壮大な計画が記されていました。
明治の先人たちは100年後、200年後の日本を目指して国造りをしていました。明治神宮の森を設営した人たちは、150年後に完成することを願っていたといわれます。最近は、目先のことにとらわれることが多く、先のビジョンが語られることが少ないように思いますが、世界遺産の島、屋久島で蘭奢待のレプリカを見ながら考えさせられました。
屋久島でもう一つ注目したいところは、カトリック宣教師シドッチの上陸地です。日本に最初にやってきたのはフランシスコ・ザビエルですが、1549年8月15日に鹿児島市に上陸し、布教の許可を得て、お寺を借りて人々に連日、福音を語りました。しかし江戸時代に入って鎖国し、キリシタン禁制になったため、宣教師は一人も入国できなくなりました。シチリア島生まれのシドッチ神父は、ローマ教皇の使命を帯びて、鎖国日本で布教の許可を得るため、自身の強い思いを胸にはるばる大洋を超えて屋久島の南岸に、夜陰に紛れて上陸しました。松林の中で遭遇した村人は、自宅に招いて食べ物と寝る場所を提供しますが、お礼の金貨は受け取ろうとしなかったそうです。
シドッチは屋久島から長崎に護送され、江戸に送られて切支丹屋敷に幽閉の身となり、新井白石から尋問を受けることになります。そして、新井白石は『西洋紀聞』を記しますが、日本人に国際的な視野を与え、その後の歴史に大きな影響を与えました。
シドッチは切支丹屋敷に幽閉の身ではありましたが、その生きざまは、シドッチの身の回りの世話をしていた老夫婦に感銘を与え、老夫婦は死罪覚悟で洗礼を受けることを申し出ます。シドッチは、彼らの行く末を考えて最初は反対しますが、熱意に押されて洗礼を授けます。老夫婦は死罪になることはなく、残りの生涯を座敷牢で過ごしたみたいです。
2014年の夏、切支丹屋敷のあった小石川の工事現場から遺骨が出てきますが、DNA鑑定の結果、シドッチのものであることが分かりました。この遺骨から、驚くべきことが判明します。当時の日本は棺おけを使っていたため、体を折り曲げて入れていたのですが、カトリックでは棺に納めるため、真っすぐ横になった状態になります。シドッチが亡くなったとき、周りにカトリック教徒はいなかったのですが、キリスト教式に葬られたのです。死者に対する尊敬の念があったからこそ、こういうことができたのではないかと思います。
今、「屋久島シドッチ記念館」を建設する運動を進めている女性がいます。この方は、ニューヨークから屋久島に移住してきた作家ですが、『密行 最後の伴天連シドッティ』を出版し、フランス語とイタリア語にも訳されて欧米でも読まれているそうです。地元の教育委員会も巻き込んで、みんなの憩いの場となるような記念館を作りたいと張り切っておられますが、カトリック教徒ではないということでした。
過去に学び、将来を見据えてビジョンを描いていくことは、今日のわれわれに求められていくことではないかと思います。私たちが経験したこと、苦しんだことの全ては、他の人々への慰めになることを知るときに、勇気が与えられるのではないでしょうか。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。(2コリント1:4)
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