「マンガ大賞2021」第2位、「次にくるマンガ大賞2021」コミックス部門第10位、「このマンガがすごい!2022」オトコ編第2位、「マンガ大賞2022」第5位を獲得した『チ。―地球の運動について―』(以下『チ。』と表記)。4月には、第26回手塚治虫文化賞のマンガ大賞にも選ばれており、人気と作品のクオリティーの高さは折り紙付きだ。単行本第5集発売時で、シリーズ累計100万部を突破。現在は第7集まで発売中で、6月末には最終集が発売予定となっている。
『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』ほど長くはないが、各コマ内に詰め込まれたセリフは膨大で、小林よしのり氏の『ゴーマニズム宣言』を想起させる。それでいて、重要なセリフやストーリー展開には趣向が凝らされており、ページをめくった途端に見開きで大きく、メッセージ性の強い言葉がドンと投げ込まれたりしている。
作者の魚豊氏は、2021年5月のインタビューで次のように語っている。
中世のヨーロッパって、自然科学の知性と、暴力的なフィジカルが渾然(こんぜん)一体と結びついています。そのアンバランスさが、現代から見たら面白く映るのではと。
天動説から地動説へ移行する、知の感覚が大きく変わる瞬間がいいんですよね。哲学と結びついて、「コペルニクス的転回」や「パラダイムシフト」って言葉が生まれるくらいの衝撃を与えました。その瞬間が面白くて、漫画にしようと決意しました。
本作の時代設定は、中世中期から末期(15世紀ごろ)で、舞台は「C教」が支配する欧州である。C教に支配された世界では、「地の基は動かない」という「天動説」が真理として語られ、天におられる神が罪深き人間たちを睥睨(へいげい)していると信じられていた。そして教会だけが例外で、そこは清められた場所であり、そこに仕える者たち(司教、司祭)が「聖なる存在」とみなされていた。しかしその時代、ひそかに天文学を追究する者たちがいた。彼らは、聖書をかさに着て教会が提示する天動説に異を唱え、実は地こそが動いているのではないかと考えていた。つまり「地動説」を探求していたのである。そこで引き起こされる体制側(C教、教会)と天文学に魅せられた市井の人々との100年以上にわたる戦いを、本作は描いている。
「C教」とかえって目立つやり方で示されているように、これは「キリスト教(Christianity)」であることは明白。しかも「C教」の司祭が堂々と「聖書では・・・」と語っているのだから、決して架空の話として描いているのではないことも一目瞭然。そしてタイトルの『チ。』とは、「大地(だいち)」のチ、「血(ち)」のチ、「知識(ちしき)」のチの3つを重ねているそうだ。
ネタばれになるため詳細は省くが、地動説に魅せられた人々は、決してその時代、その状況の中で幸せを手にすることはない。教会が禁じた教え、考え方を自らの意志で探求するという「罪」を犯してしまったため、厳罰に処せられるからである。それでも人々は探求することをやめない。いや、やめられないのだ。やがて物語は中世から近世へと移り始める。そこで起こる対立は、逃げる側と追う側という構図を超え、共に相手を撲滅せんとする「戦争」へと突入していく。果たして地動説を世に知らしめることはできるのか。それは一体どうやって可能となるのか。そのあたりに作者のイマジネーションと、歴史的事実とが巧みにブレンドされた「マンガの妙」を見て取ることができる。最終集が楽しみである。
本作は、2020年からマンガ雑誌「週刊ビッグコミックスピリッツ」で連載された作品で、すでに同誌では4月に完結している。私は単行本で一気読みしているので、結末がどうなるのかはまだ知らない。とはいえ、作中で描かれている人々の生きざま、そして歴史のうねりは、決して虚構のものではない。また、キリスト教界という「閉鎖的な空間」に生まれ落ちてしまった(とはいえ、私自身は今ではこれでよかったと思っているが)「2世」たちが抱く苦しみや理不尽さも端的に表していると思う。だからページをめくる手が止められないし、同時に心が痛む。
だが、そのような感傷的なマインドを乗り越え、さらに俯瞰(ふかん)的な視点で『チ。』を読み返すとき、歴史を生み出す人々(ヒストリーメーカー)に共通する世界観が色濃く反映されていることに気付かされる。それは、まさに「地、血、知」のバトンリレーである。
地動説が「説」として形を成すまでに、いろいろな形でその研究成果が伝えられている。しかしそのどれにも共通しているのは、常に先を見据えて今の自分の行動を決断する人々の姿である。たとえこの身が滅びようとも、次の世代に残すべき、伝えるべきものがあるということに気付かされた人間の、まさに「信仰のなせる業」である。
クリスチャンと自らを称する者たちは、この世界観を知るべきだ。どうして『チ。』がキリスト教書店大賞にノミネートされていないのだろう? 私は本作を強く推す。
確かに面白くストーリーテリングされており、拷問や異端審問の描写にエンタメ的要素が含められていることは否めない。だが、この物語は現代のキリスト教界、そしてその中で信仰者が現代性と宗教性のはざまで抱かざるを得ない「違和感」を見事に言い当て、しかもそれをどう乗り越えていったらよいのかを大胆に指し示している。
神学的描写はかなり研究されているように思えるし、今も昔も、どうしてキリスト教が保守的な世界観にとどまらざるを得ないのかを具体的に示す一例ともいえよう。
最終集の発売までに、何度も読み返して待ちたいものである。
■ 魚豊作『チ。―地球の運動について―』(小学館)
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