ロシアは24日、ウクライナに対する軍事侵攻に踏み切った。NHKなどの報道によると、ロシア国防省はこれまでに11の空港を含むウクライナ軍の施設80以上を攻撃したと発表。ウクライナ北部にあるチェルノブイリ原子力発電所もロシア軍に占拠されたと報じられている。
時事通信によると、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領はこれまでに、民間人を含めウクライナ人137人が死亡、316人が負傷したと発表した。ロシアは現在、1)ベラルーシからの南下、2)クリミア半島からの北上、3)ロシア南西部からウクライナ北東部ハリコフへの進軍――の3ルートで侵攻しているとされる。米ブルームバーグ通信(日本語版)は、西側情報当局高官の話として、ウクライナの防空能力は事実上無力化しており、首都キエフが数時間以内に陥落し、ロシア軍に掌握される可能性があると伝えている。
一連の事態を受け、1961年から東欧地域で宣教を行っている「東欧宣教団」(EEM、米テキサス州)のダーク・スミス副会長は24日、米キリスト教メディア「クリスチャンポスト」に、両国のために祈るよう呼び掛ける寄稿(英語)を掲載した。スミス氏は、「ウクライナ人は『善』、ロシア人は『悪』というレッテルを貼るようになることを危惧している。実際は、ロシアの多くの市民は戦争に反対しており、彼ら自身も権威主義的な政府の犠牲者なのだ」と述べ、両国のための具体的な祈りの項目として5つを挙げている。以下に、スミス氏の寄稿の邦訳を掲載する。
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ウクライナとロシアの間で緊張が高まる中、ウクライナの人々が侵略の恐怖におびえて身を縮めていることに、全米のクリスチャンが心を痛めている。しかし、忘れてはならないのは、どちらの国にも私たちの祈りを必要としている人々がいるということだ。キリストは、私たちがどの国に住んでいるか、あるいはどんな肌の色をしているかで、私たちにレッテルを貼られることはない。
60年以上にわたり東欧の人々に奉仕してきた私たちには、さまざまな政治的国境の内側に住むクリスチャンの兄弟姉妹がいるが、彼らの第一の忠誠はキリストにある。さらに、紛争のどちらの側にも、イエスについて聞き、神の言葉に触れることを必要としている人々がいる。
私たちは米国で、あるグループが人々にレッテルを貼って彼らをカテゴリー化し、彼らを知るために時間をかけたり、彼らの話や考え方を聞いたりする必要がないかのように振る舞う例を数多く見てきた。それは怠慢であるだけでなく、神に従う者として、神の御心から外れている。今、ニュースの見出しや権力者たちの言動のために、私たちは、ウクライナ人は「善」、ロシア人は「悪」というレッテルを貼るようになることを危惧している。実際は、ロシアの多くの市民は戦争に反対しており、彼ら自身も権威主義的な政府の犠牲者なのだ。
私たちは、ウクライナとロシアのため、全米のクリスチャンに祈りのとりなしに加わるよう呼び掛けたい。私たちは力を合わせ、これらの国々の指導者や人々の生活に介入してくださるよう神に願う必要がある。
テモテへの手紙一2章1~2節「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」は、指導者のために祈ることの重要性について鋭く宣言している。
ウクライナとロシア両国の人々のために祈り、とりなしをするため、ここで以下の5つの祈りの項目を提案したい。
- 両国の指導者が神の真理と平和を知り、聖霊によって変えられ、戦争の代わりに平和の道に国を導くことを求めるように。
- 神が介入してくださるように。世界の指導者たちが作戦を立て、戦略を練り、発言するとき、知恵が与えられるように。神が彼らの心に働き掛け、その歩みと計画を導いてくださるように。
- ウクライナとロシアの人々に、平和と慰めと守りがあるように。
- この大きな苦闘の中で、神の栄光を見ることができるように。神に従うウクライナとロシアの人々を通して、神の栄光が現されるように。
- 福音の分かち合いと受け入れのための機会が開かれるように。紛争の結果として、ウクライナとロシア全土に神の御名が知られるように。ウクライナとロシアの人々が神の御言葉に触れることができるように。
すべての国の指導者のため、またこの危機によって影響を受ける人々のために祈るとき、エフェソの信徒への手紙6章12節「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」は、本当の戦いがどこで繰り広げられているかを思い起こさせてくれる。
共に祈ってくれている人々に感謝したい。私たちが互いにレッテルを貼り、それによって相手に対する行動を決める誘惑にかられるなら、神がそれを正してくださいますように。そして、私たちがどこに住んでいようと、どんな言葉を話していようと、どんな肌の色をしていようと、互いに愛し合い、その人のありのままの姿を見ることにあらためて努めようではないか。