家族とは何か――。これは古くて新しい永遠のテーマである。特にコロナ禍でステイホームが奨励されるようになり、今まで以上に家族との時間が増えたという人も多いだろう。私の場合もそうだ。特に学生である息子と娘とは、時空間をよく共有するようになった。それで距離が縮まったか、と言われると、話はそんなに簡単ではない。よく「兄弟は他人の始まり」と言うが(私には兄弟がいないのでよく分からない)、家族が「最も近い他者」であることを共通のメッセージとして訴える3作品を紹介したい。
どれも決してハッピーエンドの「観て良かった」系映画ではない。話の結末がすっきりしないものもある。予算の規模でいうと、ハリウッドの巨匠が巨額の資金をつぎ込んで生み出した大作もあれば、自主映画のような小粒な作品もある。しかし、どれもこれも一度観てしまうと何度も思い出さずにはおれず、そして自分の家族のことに思いをはせざるを得なくなる心に刺さる作品ばかり。観終わった後に誰かと語り合うもよし、一人でじっと一点を見つめながら沈思黙考するもよし。とにかく忘れられない作品群であることは間違いない。
1)「さがす」(片山慎三監督)
「岬の兄妹」のスマッシュヒットで一躍有名になった片山慎三監督。彼のメジャーデビュー作品が、本作「さがす」だ。主演は佐藤二朗。共演は「湯を沸かすほどの熱い愛」「空白」の伊東蒼、「東京リベンジャーズ」「ちはやふる」シリーズの清水尋也(ひろや)、ドラマ「全裸監督」シリーズなどの森田望智(みさと)である。本作は、第26回釜山国際映画祭ニューカレンツ部門に出品されている。
何を言ってもすべてネタバレになってしまうので、ストーリーは詳述できない。ただ「ぜひ劇場に足を運んでください」としか言えない。本作で問われているのは、「あなたは本当に自分の家族のことを知っていますか」という、真正面から問われるなら虚を突かれるテーマである。失踪した父を捜して中学生の娘が奔走する物語、としか言えないが、そこで交錯するさまざまな人間模様は、単に「娘の父捜し」にとどまらず、「夫婦とは何か」「愛するとは何か」という普遍的なテーマへと拡大していくことになる。そして、そこにきれいごとでは終わらない人間の「性」が絡むことで、「岬の兄妹」を越えるとんでもない飛躍が物語の後半に用意されている。しかも従来はこの手の映画では絶対に見せなかった「あのシーン」も、赤裸々に描き出している。ラストで娘は父を捜し出せるのだろうか。そして彼女が捜し出したと思っているその父は、果たして真実の姿なのか。さまざまな疑問符が頭に浮かぶ中で物語は展開していく。
聖書に「捜しなさい。そうすれば見つかります」(マタイ:7:7)とあるが、そのような探究の果てに見いだしたものを、私たちは受け入れることができるのだろうか。聖句のその先に思いをはせるとき、私たちの生活には、思わず考え込んでしまうような現実が隣り合わせにあることを突き付けてくる一作である。
2)「ハウス・オブ・グッチ」(リドリー・スコット監督)
今年度のアカデミー賞レースで、間違いなく注目の的となるのが本作。主演のレディー・ガガが主演女優賞を獲得するか、また御年84歳のリドリー・スコット監督が監督賞を取れるかなど、話題に事欠かないハリウッド超大作。高級ブランド「グッチ」のお家騒動という華々しい様相に目を奪われず、そのテーマに集中していくなら、そこに見えてくるのはやはり家族の物語である。グッチ一族の血を引くマウリツィオ(アダム・ドライバー)と知り合ったパトリツィア(レディー・ガガ)。2人は恋に落ち、結婚。その後、グッチ家とは距離を置きながらの新婚生活であったが、結果的にその中枢に入り込むことになる。そして、パトリツィアは持ち前の才覚でいつしかグッチ家を操るほどまでにその力を伸ばしていくのだが――。
本作を観て強烈によみがえってきた聖句がある。それは、「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる」(箴言15:17)である。本作を一言で言い表すなら、まさにこれだ。ラストでパトリツィアが人々に対して「あの一言」を言い放つ様は、周りから見るなら滑稽であるが、グッチ一族にとっては悲劇であろう。同じく一族の崩壊を詳細に描いた名作に「ゴッドファーザー」シリーズがあるが、こちらがイタリア系米国人の悲哀から始まっているのに対し、本作のグッチ家は最初から欧州人としての誇りと高貴さを持っていた分、日本の私たちが感情移入しづらい設定といえよう。現在のグッチの経営に、グッチ一族が一人も関与していないという現状をさもありなんと思わせるコメディータッチの悲劇的家族ドラマである。
3)「誰かの花」(奥田裕介監督)
横浜市にある映画館「横浜シネマ・ジャック&ベティ」の30周年企画として製作された。ほぼ団地の中、室内のみで撮影されたこの物語は、きりきりと私たちの心を締め上げるサスペンス色の強いヒューマンドラマとなっている。出演は、「ケンとカズ」などのカトウシンスケ、吉行和子、高橋長英、大石吾朗、テイ龍進、渡辺梓(あずさ)ら。あまりメジャーではない俳優たちがこぞって出演する本作のような作品こそ、実は大きな驚きと感動を私たちに与えてくれる。なぜなら、名優や今売れっ子の俳優などが大挙して登場する作品(例えば上述の「ハウス・オブ・グッチ」)では、彼らが主人公として物語が展開することが読めてしまう。だからストーリーもひっきょう予定調和的になりがちである。
しかし本作はまったく予断を許さない。ある事故をめぐり、人々の隠してきた本音と建前が浮き彫りになり、彼らの偽りと真実が交錯していくことになる。認知症になってしまった父。その父から「事故で亡くなった兄」と勘違いされている弟。彼が本作の主人公である。そして彼らを優しく包み込もうとする母親――。「8050問題」ではないが、老夫婦に独身男性という家族構成は、「絵に描いたような家族像」とは真逆のいびつさをスクリーンから私たちに訴えてくる。そして「事件」が起こる。
ベランダから落ちた植木鉢が直撃し、団地の住人が亡くなってしまう。それは「事故」として処理されるが、カトウシンスケふんする主人公の孝秋は、認知症の父に対する「ある疑念」を拭い去ることができない。どうして父はあの日、ベランダにいた(ように思えた)のか、なぜ土で汚れた軍手をしていたのか。
しかし孝秋はそのことを父に問いただせない。もちろん「認知症だから」という言い訳は成り立つ。だが彼はもっと奥深いところで、「父は自分にとって何者か」という根源的な問いを抱いてしまう。意を決して父と向き合う孝秋だったが、果たしてその先に見えたものは、真実なのか、それともさらなる混迷の闇なのか――。
本作を観終わって思い出したのは、「パラサイト 半地下の家族」のポン・ジュノ監督が2009年に公開した傑作「母なる証明」である(これを言うだけで知っている人にはネタバレか)。
聖書の中に、「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ」(箴言25:2)という言葉がある。孝秋は、王でもないのに分不相応な探偵を買って出たことで、さらなる迷路に入り込んでしまうことになる。それは「家族」という名の迷路である。そして行き着いた先に、彼が、そして彼の視線を通して私たちが見るものとは何だろうか。各々の人生がフラッシュバックし、そして本作が「誰かの花」というタイトルになっている意味が分かったとき、私たちは憤慨するのだろうか、それとも涙するのだろうか。
ぜひ、ここで取り上げた3作品をご覧いただきたい。
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