「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました」(2テモテ1:7)
カマスを使った実験です。水槽の中に大きなガラス板を入れて間仕切りし、一方にカマスを1匹入れ、反対側にカマスの大好物の小魚を入れます。カマスは小魚めがけて突進しますが、ガラスにぶつかって跳ね返されます。しかしUターンをして再び突進、また跳ね返されます。これを何度も繰り返しているうちに、やがてカマスは失望して小魚に向かって突進することをやめてしまいます。
その後、水槽のガラス板を引き抜きます。小魚はカマスの周囲を自由に泳ぎ回りますが、驚いたことにカマスは小魚に見向きもしません。「自分はもう小魚には近付けない」と思い込んでしまったのです。そしてカマスは大好物の小魚に囲まれたまま、飢え死にしてしまいます。それは、失望があまりにも大きかったからです。
人間も何度も何度も失敗したり、何度も何度も期待を裏切られると、生きる意欲を失って「生ける屍(しかばね)」になってしまうことがあります。聖書の中にもそんな人物が登場します。
彼は38年も病気にかかっていました。医者にも見放されて、ベテスダの池のそばにいたのです。実は、このベテスダの池には迷信があって、時々天使が来て水浴びをする。すると水面が動く。その後最初に池に入った者の病気が治るというものでした。彼は、もはや当てにならない迷信にすがるよりほか道が無いほどの状況に置かれていたのです。
イエス・キリストが来て彼に質問されます。「よくなりたいか」。彼は毎回期待が裏切られて、心も体も疲れ果てて「治りたいか」「よくなりたいか」と聞かれなくてはならないほど無気力な状態に陥っていたのです。リハビリの訓練の専門家は「早く回復するかどうかは、障害の軽重ではなく、本人の治りたいという意欲にかかっている」と言います。だからイエスは「よくなりたいか」と聞かれたのです。
直訳すると「あなたは治されたいのですか」と言われたのです。つまり「わたしはあなたを治す力を持っているが、あなたはそれを受け取って良くなりたいという意欲があるのか」と尋ねたのです。するとこの男の答えは意外なものでした。「主よ、水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りていきます」
この男が言いたかったことは、「自分がいつまでたっても治らないのは、私を池に入れてくれる人がいないからです。皆自分のことしか考えない自己中心的な人ばかりで、誰も私のことなんか気にかけてくれないんです。だから私はいつまでもこのままなのです」。つまり「自分が治らないのはここにいる人たちのせいだ」と言わんばかりです。この男のような生き方をしている人をしばしば見かけます。
「俺がこんなに不幸なのは〇〇のせいだ」
「〇〇が変わってくれれば私は幸せになれるのに」
この「責任転嫁」男に対して、イエスは命じます。「起きて床を取り上げて歩け!」つまり「わたしはおまえを歩かせる力を持っている。自分の不幸を人のせいにするのではなく、わたしの力を受け取って、自分の足で歩きなさい!」とイエスは言われたのです。
ジェネファー・ロスチャイルドさんは、生まれつき目が不自由です。彼女は信仰深い両親のもとで愛情いっぱいに育てられます。高校卒業後、両親は自宅から通える地元の大学を勧めましたが、彼女は音楽を学ぶために親元を離れて一人暮らしをしながら音楽大学に通いたいと申し出ます。両親は「でもお前の身の周りの世話は誰がしてくれるの?」と心配しました。彼女は「今は分からないわ。どんな困難が待っているか想像もつかない。しかし私はイエス・キリストと一緒に歩んでいるから大丈夫よ!」
こうして彼女の学生生活は始まりました。すると、すぐに一人の魅力的な男子学生に出会いました。現在の夫のフィリップ・ロスチャイルドさんです。ジェニファーさんは言います。「信仰とは自分の願いをかなえてもらうのでも、困難から逃れるためのものでもありません。信仰は苦難を乗り越える力を与えてくれるものです。そして、苦難を通して私たちは成長できるのです。苦難の中に神の姿を見いだせない人は、肉体の目が見えないことよりもっと悲惨なことです。苦難の中で神の声を聞けない人は、肉体の耳が聞こえないことよりもっと悪いことです。苦難の中で、恐れのために前に進めない人は、体が寝たきりの人よりもっと悲劇的なことです」
ジェネファーさんの目は不自由ですが、自分の人生をイエスと共に力強く歩んでいる人なのです。
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