世界のクリスチャン音楽界をリードするヒルソング教会と、開拓20年で3万人の教会へと成長したインドネシアのジャカルタ・プレイズ・コミュニティー・チャーチ(JPCC)の著名リーダーたちが講演する「ワーシップ&リーダーシップ・カンファレンス」が11日から13日までの3日間、静岡県浜松市のライブチャーチ寸座で開催された。2日目午後には、礼拝とリーダーシップに関するさまざまな分科会が行われ、「スモールグループの導き方」に関する分科会では、JPCCで1400あるスモールグループの働きに責任を持つコミュニティー・パスターのアルフィ・ラジャググ氏が講演。「礼拝と弟子訓練」をテーマに、スモールグループを導く上で知っておくべきポイントを豊富な実践経験に基づいて解説した。(関連記事:教会のリーダーが倣うべきイエスの生きざまとは? アジア圏のメガチャーチ牧師が講演)
「最も大切な戒め」と大宣教命令
アルフィ氏は、礼拝と弟子訓練は「コインの両面」の関係にあると指摘し、ローマ人への手紙8章29節「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」を引用。「イエス様を礼拝するときに、私たちはもっとイエス様の似姿になっていきます。神の言葉は私たちの考えを新しくし、イエス様が愛するものを愛するようになり、イエス様が心痛まれることに、同じように心痛めるようになっていきます」と話した。
また、クリスチャンの歩みは、神を愛し、隣人を愛するという「最も大切な戒め」(マタイ22:36〜40)と、あらゆる国の人々を弟子とするように言われた大宣教命令(同28:18〜20)に基づくと指摘。「私たちが神様を愛するならば、人々をも愛するということです。まずは私たちが主の弟子となり、さらに主の弟子をつくっていく存在になっていきます」と語った。
御言葉の「適用」が人に変化をもたらす
アルフィ氏は、主日礼拝とスモールグループの特徴を対比させながら、スモールグループが果たすべき役割を解説した。
まずは、座席の並び方に注目。主日礼拝では多くの場合、座席は「列」に並ぶ。一方で、スモールグループの座席は「円」だ。アルフィ氏は、情報の流れが講壇から会衆への「一方通行」となる主日礼拝とは違い、スモールグループでは「双方向のコミュニケーション」を取りながら進めていくと説明した。
では、それぞれの焦点はどこにあるか。主日礼拝では、「発信(プレゼンテーション)」に焦点を合わせるが、スモールグループでは「会話」に重点を置くとアルフィ氏。「スモールグループは、深い聖書の学びをする場所ではないし、神学について討論するような場所でもありません。もっと霊的な交わり、霊的な会話を交わすための場所なのです」。スモールグループで交わされる会話について、「例えば、この前の主日礼拝で何を学んだのか。神様と静かに交わりを持ったときに、何を語られたのか。また、人生のどこでつまずきを経験し、あるいはどこで勝利を得たのか。そういったことを分かち合います」と説明した。
また、主日礼拝では出席者の「認識」や「精神(マインド)」を扱うが、スモールグループでは「心」を扱うという。「ある人が『世界で最も長いのは、私たちの頭から心までの距離だ』と言いました。知ることと実践することは別の話です。主日礼拝は、どちらかというと知識に基づいた内容です。しかしスモールグループでは、皆さんが知識として学んだことを実際に適用できるかどうかに焦点を合わせます」
アルフィ氏は、「学んだ御言葉をどう適用するかという点において、私たちは非常に乏しいと思います。しかし、さまざまな知識は得るけれどもそれを実際に適用することがなければ、私たちは次第に人を裁くようになっていきます」と指摘した。
それぞれの方向性も比較した。主日礼拝は、その場にいる人々にインスピレーションを与える方向性がある。一方、スモールグループでは、参加者がトランスフォーメーションする、つまり変化していくことに方向性を定めている。「インスピレーションを受けることは悪いことではありません。しかし、私たちの究極的なゴールは、人がキリストによって変えられていくことです。御言葉の『適用』が、私たちに変化をもたらします」
最後に比較したのは、結果としてその場にいる人々がどのように応答するかだ。「主日礼拝で会衆は、育ててもらう立場にあります。一方、スモールグループでは、御言葉を通して自らを育てるように人々を励まします」
アルフィ氏は、「信仰の成長は、その人が神の言葉で自分自身を養うことができるときに始まります」と強調。JPCCでは、聖書アプリ「ユーバージョン」で作成したデボーションプランを教会全体で共有し、一人一人が御言葉を自らに適用できるように励ましていることを紹介した。
スモールグループは弟子訓練の場
弟子訓練とスモールグループの関係については、「弟子訓練は人間関係の中で育まれていきます。そして、弟子訓練が最適な形でなされるのが、スモールグループの働きです」と語った。しかし、「スモールグループを導く人々の多くは『交わり』には意識を向けますが、弟子訓練には関心が薄いのです」と指摘。「交わりを持つことは本当にいいことです。しかし、スモールグループの働きとしては、それがゴールではないのです」と強調した。その上で、交わりと弟子訓練の違いを見ながら、スモールグループを導く上で知っておくべきポイントを解説した。
まずは、何を中心に展開していくか。交わりは「イベント」の中でなされていくが、弟子訓練は「プロセス」の中で進んでいくという。「イベントはすぐに過ぎ去るものです。しかし、プロセスには時間がかかります。イベントは楽しいものですが、長い時間のかかる弟子訓練は非常に苦しいものです」と語った。
「弟子訓練の目的は、導く人たちにではなく、神様に信頼し、聖霊にしっかりと自身を委ねることができるように人々を導くことです。そうすることで、彼らがキリストのうちにあって成長し、成熟したクリスチャンになることができます。このプロセスのためにしっかりと時間を割く必要がありますし、このような明確な目的があって行っていることを、私たちは認識する必要があります」
アプローチの違いについては、「『多いほど良い』というのが交わりです。しかし弟子訓練は、『少ない方が良い』という考えです」とアルフィ氏。「少ない方がしっかりとコミュニケーションを取ることができるからです。人数が多いと、話すことに臆病になってしまいます。もしグループが大きければ、その中で小さいグループをつくることをお勧めします」と話した。
交わりと弟子訓練では、成功に対する見方も大きく異なる。「交わりが成功したかどうかは、どれだけ人が集まったかで評価します。しかし弟子訓練においては、人々の人生が変わったかどうか、あるいは新しいリーダーがその中で生まれたかどうかで評価します」。アルフィ氏は、「人数が多ければ、逆に人生の変化を体験する人が減ってしまいます」と話す。「人数が多いと人々が、自分に関心を持ってもらえている、自分のことを心配してくれていると感じにくくなります。しまいには、そのグループに自分が行かなくてもいい言い訳を考えるようになってしまいます」。JPCCでは、1つのグループが新しいグループをつくるサイクルを12カ月で行えるように励ましているという。
また、「礼拝の出席者が増えることは、成長ではありません」と話す。「たくさんの人が礼拝に来ても、いとも簡単に彼らの意識が違うところに行ってしまいます」。さらに、「奉仕したいという熱意があっても、その人が成長したことにはなりません」と指摘。「熱意を持って奉仕はできても、御言葉を学ばない人はいるのです。一方で、聖書の学びをたくさんしたからといって、信仰の成長を評価することはできません。知ることも大切ですが、同時に実践することもとても大切だからです」と語った。
その上で、「信仰の成熟は、霊的な賜物や祝福によって評価するものでもありません。こういったものは、私たちの信仰が成熟したから与えられるものではありません。私たちが自ら育まなければならないのは、私たちの人格です」と話した。
会話の内容は、交わりと弟子訓練でどう違うのか。「交わりにおける私たちの会話は、表面的な内容が多いです。しかし、弟子訓練における会話の内容は、霊的な交わりに重点を置きます」。そのため、グループに参加する一人一人が、自分は受け入れられていると認識し、心を開いて話すことがとても大切だという。「もし心が開かれていなければ、その人の人生が変わることはありません。受容は解放の始まりです。そして解放は、人生が変化する始まりです」と強調した。
また、交わりは「ルーティン」として繰り返し行われていくものだが、弟子訓練では人々をどれだけ「理解」できるかに集中するとアルフィ氏。「ルーティンというのは、しまいには飽きてきたり、疲れてきたりするものです。パンデミックの状況下では特にそうです。しかし、私たちがスモールグループになぜつながっているのか、その理由をしっかりと持てるならば、どれだけそのグループを持ったとしても意味のあるものになっていきます」
さらに、それぞれの基本的な行動を比較すると、交わりでは「一体感をつくる」ことに目的を合わせる。一方で弟子訓練は、「神との親密な関係をつくる」ことに重点を置く。「私たちが心を開くには、一体感はとても大切なものです。しかし、人の人生が変わるには、その人が神様との親密な関係をしっかり持たなければいけません」
アルフィ氏は、「人の人生を変えることは私たちにはできませんが、そのための雰囲気をつくることはできます。私たちは、自分がしたくないことを、人にさせることはできないのです」と話した。
神が求めているのは弟子
最後にアルフィ氏は、イエスの大宣教命令(マタイ28:18〜20)を引用し、「神様が求めているのは、教会メンバーではなく、弟子なのです」と強調した。「ただの知識を教えなさいというレベルの話ではありません。その人の人生が変わることにまで踏み込んだ話です。それは、御言葉に対して従順に従うことができるように教えなさいということです」
「まず一番のチャレンジは、私たち自身が御言葉に従う主の弟子となることです。そうでなければ、主の弟子を訓練することはできません」とアルフィ氏。その上で、「大宣教命令の素晴らしいところは、神様の約束から始まって、約束で終わることです」と話した。
「イエス様はまず、『天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています』と、弟子たちに力を与えられました。そして、その権威によって行くようにと、神様は私たちを押し出してくださっています」
アルフィ氏は、「神様は、できる人を求めてはおられません。神様が求めているのは、『私がやります』と応答する人です。神様は必ず、ご自身の権威をもってその人を導かれます」と強調した。
「そして、大宣教命令の御言葉は、もう一つの約束によって終わります。『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます』。この2つの約束は、皆さんがキリストのために多くの弟子を訓練するために与えられた、神様からの素晴らしい約束だと確信しています」
聖霊がすべてを教えてくださる
20代の参加者から、イベントに来ることや友達がいることが目的で教会に来た若者にどのようにアプローチすればいいかとの質問を受け、アルフィ氏は「もし私があなたなら、そのような人の橋渡しになれるように努めます」と答えた。
アルフィ氏は、「弟子訓練は、人間関係を築いていくことから始まります」と話し、まずは心を開いて話すことができるように信頼関係を深めることが大切だとアドバイスした。さらに、「彼らの人生の中で、神様がどのようなことをなさろうとしておられるのかを示すために、まずはあなたが良い模範になることです。もしあなたが彼らに、主の弟子となるためのプロセスを好きになってもらいたいならば、あなたがその模範を示す必要があります」と話した。
「なぜイエス様が十字架で死なれたのでしょうか。イエス様はキリスト教という宗教をつくろうとしたのではなく、私たちと神様との橋をつくろうとしたのです。2千年も前からずっと、イエス様は絶えず私と神様との間に橋をつくってくださっています」
そして、「聖霊が私たちにすべてを教えてくださいます」と強調。「人々を導くことは、ただ誰かの真似をすればできるというものではありません。神様の導きによってしかできないのです。私たちが人を変えることは決してできません。しかし、私たちがその人の橋となることができるならば、神様がその人をより変えやすくなります。あなたが彼らの橋になることによって、彼らは、自分がありのままで受け入れられていることを知るようになるからです」と語った。