フィリピンの北の方、首都マニラのある大きな島がルソン島です。その北部の山間部に、サマーキャピタル(夏の首都)と呼ばれるバギオ市があります。高知県が姉妹関係を結んでいるベンゲット州の中に位置しますが、行政的には州から独立した都市です。
標高が高いので一年中気候が快適で、寒い時には霜が降りることさえあります。夏の避暑地として名高い、日本の軽井沢のような所です。
バギオといえばバギオ野菜が有名で、その地方で取れる野菜は新鮮でおいしいという定評があります。バギオ野菜はマニラなどの首都圏に大量に出荷されていて、バギオ市の経済はそれによるところが大きいようです。
バギオ野菜の始まりについては、興味深い話があります。第二次世界大戦が終結したとき、フィリピンに移住していた日本人やその子孫の多くは、ルソン島の北部に逃れ、山奥深く入り込んでひっそりと隠れて生活していたそうです。山から出てくると、反日感情が激しい当時のことですから、命を失う危険がありました。それで人目を避ける生活を余儀なくされました。
1970年代のこと、フィリピンで働いていた日本人のカトリックのシスター海野という方が、そのことを聞いて山奥の日系人を訪ねて歩いたのでした。一軒一軒訪ねてみると、日系人はひどい貧困生活をしていました。食べるのにも困り果てていたようです。
シスター海野は、この人たちのためになんとかしなくてはと考えて、日本から野菜の種をたくさん持ってきて、その人たちに野菜作りを勧めました。適度に寒暖のあるバギオの気候が合い、日本で育つ野菜はほとんどそこでも育つことが分かったのです。
その時から、日系人が野菜をたくさん育てるようになり、時代の変化とともに反日感情も和らぎ、バギオの野菜市場にも卸すようになっていきました。すると、日系人の作った野菜の品質の良さに評判が広がっていき、市場も次第に拡大し、バギオ野菜としてフィリピンの中でしっかりと定着したのでした。
そのことで日系人の生活は飛躍的に向上し、やがてバギオの街を快適で立派な避暑地にするのに、日系人が一役買ったようです。一人の日本女性がなした小さな愛のわざが、数十年後に計り知れない影響を社会にもたらしたことを証ししています。
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