人をタイプ別に見ると、知恵者、知識に富んだ人、機知に富んだ人に分けることもできる。この片りんは、クリスチャンになってからも見られる。しかし、知識にせよ知恵にせよ、クリスチャンのものと世の人のものとではまったく異なる。
世の人の悟りは、いわば哲学であろう。各人が各人の考えで、究極と思われる悟りを得るが、それは時代の長きに耐えられず、時代とともに変更を余儀なくされる。普遍ではない、一時的な悟りということである。あの大哲学者サルトルでさえ、死を前にして、自分の人生(哲学)は失敗だったと言っている。
哲学の人生は、聖書に書いてあるごとく、さ迷い歩く羊のような人生である。また、不断の努力をして律法を守り抜く生活のようなものでもある。とにかく、自分自身で考え、努力し、行動していく訳である。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」(イザヤ書53:6)
私は信仰を持つ前に、信仰を持つということは、自分の自由な考えをストップさせ、一定の枠内で物事を考えることを強いられるのではないかと危惧した。見方によっては、それは正しいのかもしれない。しかし、世界は狭くなるというのは誤りで、逆に広くなる。
人間は、あまりにも自由奔放であるときには、かえってそこから何ら創造的なものは得られず、逆に何らかの枠や律法のあるところから、創造的なものや知恵が生まれるといわれている。
「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」(箴言1:7)
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