原題は「The Brand New Testament」、つまり「最新版新約聖書」! タイトルからしてすごい!(笑)
神様は実在し、現代のベルギーのブリュッセルに住んでいた。神様には妻と10歳の娘エアがいる。そして、ものすごく嫌な奴なのだ(あくまで映画の話ですからね)。
毎日、人間の人生の情報が詰まった膨大な数のロッカー(デジタル化以前のデータらしい)に囲まれた部屋に閉じこもり、今は日々パソコンで世界のルールを作っている。
「お風呂に入ったとたんに電話が鳴る」
「初恋の人とはほとんどの場合結ばれない」(嗚呼、神様のせいだったのか!!)
「ジャムを塗ったパンを床に落とすとジャムを塗ったほうから床に落ちる」(あるある)
「どれだけ眠っても疲れが取れる10分前に目覚まし時計が鳴る」(あるある)
「レジで行列に並んで、隣の行列の方が流れが早そうだと思って移ると、元いた列の方が先に進む」(ありますね)
世界には不幸なルールがどんどん増えていく。そう、世界に不幸と苦しみがなくならないのは神様のせいだったのだ! その姿を見て「最低ね!」と娘エアが言うと、父である神様は娘を殴りつける。性格悪くておまけにDVである・・・。
我慢できなくなったエアは、兄と相談し、神様である父への復讐を企てる。“兄”はいうまでもなくイエス・キリストなのだが、なぜかタンスの上に置かれたしゃべる人形なのだ。兄に「やってしまえ!」と励まされたエアは、父である神様の使っているパソコンにログインし、世界中の人間の携帯やスマホに「自分が生きられるのは残りどれぐらいか秒読みの残り時間」をメールで送るように打ち込んでしまう!
自分の寿命を知らされた世界の人々は大騒ぎになる。さらにエアは兄(繰り返すがイエス・キリストである)に相談すると、「実は使徒は18人の予定だったんだ」と語る。エアはこの苦しみと不幸にあふれた世界を変えるべく、新たな6人の新しい「使徒」を探し「新しい福音書(The Brand New Testament)」を書くべく旅に出る・・・。怒り狂った父(神様である)はエアの後を追いかける。果たして人類とエアの運命は?
監督は、「トト・ザ・ヒーロー」「八日目」などで知られるベルギーの異才ジャコ・バン・ドルマル監督。前作「ミスター・ノーバディ」以来6年ぶりに手掛けた新作だ。
ストーリーをこう書くだけでも、なかなか壮大というか奇妙奇天烈な物語に見える。しかし、よく考えてみると、実はこの映画が「神様がいるのになぜ世界には苦しみと不幸が絶えないのか?」という問い、つまり「神義論」をテーマにしていることが分かってくる。
「神義論(theodicy)」は、18世紀の哲学者ライプニッツによって、ギリシャ語の「神(theos)」と「正義(dike)」をくっつけて作られた言葉だ。「神が全能でありかつ善であるとするなら、その神の創造によるこの世界は善であるはずなのに、なぜ世界には災難や不公平、苦悩や悪が存在するのだろうか?」という問いだ。
この問い自体は、もちろんライプニッツよりはるか前から人類が問い続けた問いといえるだろう。例えば旧約聖書のヨブ記やイザヤ書、あるいはコヘレト書など、旧約聖書にもそのような問いは繰り返し描かれていることは言うまでもない。いわば人類最古の問いを、コメディーと少女の冒険物語として描き出そうとしているという点で、この映画は大変な意欲作なのだ。
エアが家を出て出会う新しい使徒たちは、重い病に侵された女性や孤独な男など、その一人一人の物語はけっこう胸を打つものがある。また、テーブルに座っての家族での食事シーンでは、神様がエアに「私の右側に座るな、目障りだ」というところなど(もちろん意味分かりますよね?)、クリスチャンなら思わずクスリとするようなジョークも盛り込まれていて、コメディーとしての出来もなかなかだ。
ただ壮大なテーマと大風呂敷を広げながら、後半になるにつれ、物語が少し尻すぼみになってしまうのが、やや物足りないような気もしてしまう。
「なぜ神がいるのに世界には不幸と苦しみが絶えないの?」という問いは、キリスト教の、というより人類が誕生してからあらゆる宗教者、思想家、哲学者、そして普通の人々が何千年も考えてきた問いでもある。たった1本の映画でその答えを示すことはもちろん無理なのだろうと思うのだけれども(笑)。
というわけで、クリスチャンからするとなかなか過激なコメディーだ。だが、このように21世紀のコメディーにおいても神や聖書や神義論が中心テーマとして描かれるということ自体が、いかに欧米人にとってキリスト教とその価値観が深く根付いているかを思い知らされて、やはりとても興味深い。
真面目なクリスチャンはもしかしたら怒るかもしれないが(?)、少し寛大な気持ちで見てみると、いろいろな発見があるのではないだろうか(笑)。
■ 映画「神様メール」予告編