シンポジウムでは、シリア人の文学者で詩人のムハンマド・オダイマ氏(東京大学非常勤講師)による「文明とテロリズム」と題した講演も行われた。同氏は1954年シリアのルワイサットで生まれ、ダマスカス大学でアラビア文学を学んだ後、パリ第一(ソルボンヌ)大学で博士号を取得、1990年から東京大学でアラビア語、文学を教授しており、多くのアラビア語の著作がある。また『古事記』や俳句、太宰治の『人間失格』や石川啄木『一握の砂』、小林秀雄など、日本の古典から近代文学と詩をアラビア語に翻訳した著作も数多く手掛けてきた。現在は日本に在住しているが、シリアにある家の状態も不明だという。
この日、氏はまず「啓蒙主義に始まる近代西欧文明と暴力との関係について話したい。具体的には2010年からの『民主化』運動において、市民の政治的自由の確立という西欧近代の啓蒙主義の延長上にある価値観のために、英米仏が行った反体制勢力への財政・武力介入支援が、シリア人やシリア人として生きる私をどのような状況に追いやったかを、文明と国際テロリズムの文脈で考えたい」と述べ、中東情勢、特にシリアとイラクにおいてこの四半世紀の間、混乱を抱え、多数の難民を流出させるに至った原因は西欧啓蒙主義文明にある、と指摘した。
同氏の講演要旨は下記の通り。
啓蒙主義文明の現代的状況
戦争、テロリズムが頻繁に起こっている地域は西欧文明地域、あるいは西欧文明が介入した地域であることは紛れもない事実です。敵対主義、暴力主義は明らかに啓蒙主義文明に内包されたものです。米国は世界の警察官としての役割をますます果たそうとしています。戦争と国際テロが発生・拡大している地域は、啓蒙主義文明が主導的役割を果たしている地域だといえます。これに対して相対的に安定した平和地域といえるのは、日本や中国のような仏教あるいは儒教を基礎としている文化、文明の地域といえるでしょう。
文明の憂鬱(ゆううつ)
今日の西欧文明は私を魅了するものです。私は文学を志して以来、西欧文明が生み出した文学を耽溺(たんでき)するほど読み、自らも詩人・文芸批評家として数多くの作品を西欧文明の枠の中で書いてきました。西欧文明の倫理・道徳・人間の幸福の実現を信じていました。それが全く反対のものをもたらすであろうことなど疑うことさえしませんでした。
西欧文明が悪と偽善を内包し、そこでは人間の倫理が崩壊しているなど、どうして信じることができたでしょうか。
現在中東で起こっていることを目撃しながら、私がこれまで親しんできた西欧文明の文学と、その枠を意識した自分の文学活動に費やした時間を後悔することしか私にはできません。私はそうして失われた自分の時間を軍事調練や兵器の扱い方を学ぶ時間に充てればよかったのではないかと後悔するほどです。
西欧文明とは?
西欧は過去2世紀以上の長い間、世界をリード・指導してきたことを十分知っています。しかし、私は若い時から学んだ西欧文明をどのように理解すれば良いのかを知りません。私は西欧文明、西欧の詩人たちと思想家を信じてきました。私はアラブ人、シリア人でありながら、西欧文明と、それが生み出した価値を過去数十の間、防衛する立場にいました。西欧文明は啓蒙主義の上に立ち、公平無私な他者への隣人愛を、また寛容を、人間としての同胞意識を、そして自由と公正を至上のものとしてきました。
西欧文明は非宗教的、近代哲学の上に立つものとされますが、宗教への信仰の上に立つキリスト教会の文明と比較して、本当に優れたものなのでしょうか? 今日の非宗教的西欧文化人たちは、中世の宗教文明の知識人たちよりもより寛容と言えるのでしょうか? 私は、そう信じてきたのでした。しかし、現在中東で西欧文明が犯している犯罪的介入を見れば、私はそうは思いません。私は全く逆ではないかとの思いを強くしています。西欧近代文明の敵対観、その攻撃的性格を見れば、キリスト教会が創造した文明の方が、はるかに寛容で、公平であると言えるような状況が生まれているのではないでしょうか。人道主義という大義に隠れて行う犯罪的行為は、中世のキリスト教文明が行った行為より、数倍、数十倍も犯罪的であります。
21世紀の戦争
啓蒙主義の哲学、その文明とも呼べる西欧文明が支配する時代に二つの大戦が起こり、数千万人が犠牲となりました。それはヨーロッパ諸国間の戦争でもありました。その戦争は、私の祖国シリアで、そして中東で続いています。21世紀の始まりと共に、西欧文明の軍隊はアフガニスタン、イラク、リビア、シリア、イエメンを破壊し、数百万の人々の生命を奪い、今もなお、そうした行為を続けています。
十字軍でもなければ、宗教指導者たちの唱導(しょうどう)もない戦争です。西欧文明の価値観である権利と公正を大学で学んだ、卒業生たちの軍隊です。西欧文明の文化人たちが信頼を置く兵士たちの軍隊です。つまり、西欧文明を体現した兵士たちの軍隊なのです。兵士たちは非宗教的で、民主主義、自由を信じています。彼らは教育を通じて西欧文明の価値観と原則を学んだ後、後者に対する敵対的態度を取り、軍事攻撃を行って殺戮(さつりく)と破壊を続けています。双方を調和させる論理がどこから来るのでしょうか? 狂気じみた行為へどうして進むことができるのでしょうか?
非宗教的価値観の中で育った西欧文明の文化人とは何者なのでしょうか? 彼らは自国内において、他人の権利を侵害することもなく、また人道的過ちを犯すこともなく生活しています。そうした彼らがいったん自国を離れるや否や、一日の距離にある中東で、殺人者、泥棒、略奪者へと変貌するのです。イラク、シリア、その他の中東諸国に足を踏み入れた途端、非宗教的文明と、そのヒューマニズムの価値観は消滅してしまうのです。そうしたことがどうして可能なのでしょうか。
狂気という言葉を使わないための驚きと疑問
私たち犠牲者に対し、西欧文明の人たちは、殺戮、破壊、略奪という犯罪行為に対する彼らの無実と、彼らの文明の無実を信じてほしいと望んでいるでしょう。彼らの弁明はあらゆるところでなされるでしょう。それはあたかも彼らの文明を信じない者の異端法廷で行われているようです。
私は西欧文明を体現している近代ヨーロッパの文化人たちに言いたいと思います。西欧哲学、詩、小説、芸術、テロリズム、特権的敵対行為、西欧的価値観の否定者への異端審問など、非宗教的西欧文明は、中世ヨーロッパ教会の異端審問と比較した場合、より敵対的であると言えます。
西欧において近代哲学が宗教に勝利して以来、戦争とテロリズムのなかで西欧文明は続いてきたといえるのです。近代化、進歩、民主主義、人権、公正への理解と浸透の中で、哲学者、詩人、文学者、芸術家を含めた西欧諸国民たちは、全ての土地とその非西欧の国々を侵略し富を略奪し、非キリスト教信徒たちを殺害しています。西欧文明の国々の国民軍は、貧しい国々から別の貧しい国々へ移動しながら戦争を続けています。彼らの大義は国際テロリストたちとの戦いです。アフガニスタンのアルカイダ組織、大量破壊兵器のイラク、シリアのイスラム国、リビア、イエメンと次々と戦争を続けています。民主化の大義の下、次はどこで戦争を行うのでしょうか。確実に言えることは、中東の別の新しい国でありましょう。
一人のアラブ人として
私が言いたいのは、弱小で貧しい国々が世界の平和と安定を脅かす存在であり、そうした国々を攻撃し、わずかな生存者しか残らないまでに家屋・財産を破壊するしかないという論理が正しいかということです。西欧人たちはアラブ人とアラブ諸国にしかテロリストを見いだせないのでしょうか? イラクの独裁者サッダーム・フセイン、あるいはリビアの独裁者ムアンマル・アル=カザーフィーを例にとりましょう。この2人は、世界の政治指導者たちの誰にも増して、世界の平和と安定にとって危険な人物だったのでしょうか? 彼らの2国を破壊する必要があったほど危険だったのでしょうか? 西欧文明の力をもってしてみれば、数百万というイラクやリビアの人々の生活と生命を犠牲にすることなく、2人を排除することはできなかったのでしょうか?
イラク、リビア、シリア、イエメンの子どもたちが何をしたのでしょうか? 彼らの国の病院の破壊を西欧文明の兵器と武器で正当化できるほどの犯罪行為をしたのでしょうか? 子どもたちにとって最低限の生活保障さえ奪うほどの行為をしたのでしょうか?
アラブ諸国は世界の平和を脅かすほどの兵器生産工場は一つもありません。そうした兵器を生産する能力もありません。テロリストたちの武器はどこから来るのでしょうか? テロリストがそうした武器を手に入れることができなかったとしたら、彼らは危険な存在であり続けるのでしょうか?
兵器を生産し、販売する西欧文明諸国は、世界の平和と安定を統御できるのです。非宗教的西欧文明がしていることは、私たち犠牲者に強制的に彼らの兵器と武器を買わせ、その後、そうして買い取った兵器と武器を所有しているとの罪で、私たちを殺すことです。
非宗教的文明、啓蒙主義的文明がしてきたこと、していることを冷静に見つけることから、私たちは戦争と国際テロの問題の解決へと向かわなければなりません。
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