18、19世紀に、中国はヨーロッパと貿易はしていましたが、イエス様のことを伝える宣教師は許していませんでした。そんなところに最初に行く決心をしたのが、イギリス人のロバート・モリソンです。
しかし、彼を中国まで乗せて行ってくれる船はイギリスにはありませんでした。仕方なく、まずアメリカまで行き、そこでやっと一人の船長に話をして、船底に隠してもらうことにし、いわば密航という形で、中国の広東まで乗せていってもらいました。広東の海岸で降ろしてもらいましたけれども、中国はキリスト教の宣教は禁止していましたし、外国人に中国語を教えることも禁じていました。
しかし、なんとか2人の中国人助手を見つけ(この人たちも、もし見つかったら死刑ですので、命をかけてモリソンに中国語を教えることにしたのでした)、彼らから中国語を学び、昼間は貿易会社の通訳として、また夜は中国人助手と一緒に聖書を翻訳しました。ところが、外国人は広東にも一年のうち半年しか滞在できず、あとの半年は別の場所に行かなければならないことになっていました。
モリソンは広東で翻訳した聖書の一部を木版印刷しました。木版印刷とは、木版画のようなもので、全部木の板に文字を彫り、それに墨を付けて印刷するというものでした。あるいは、皆さんの中に年賀状に芋や木を使って字を彫り、それを印刷したことがある人がいるかもしれませんが、それと似ています。その字を刻んだ板のことを版木と言いますが、大きな印鑑だと思ってもらってもいいです。一枚彫るのも大変ですが、聖書一冊の版木を作るのは気の遠くなるような話です。しかし、それしか方法はありませんでしたので、版木を作って印刷をしました。
印刷が終わって、広東を離れなければならない季節になったので、版木を次の年に帰るまで地に埋めて隠しておきました。警察に見つかったら取られてしまいますし、かといって、重い版木を何十枚も持って、別の場所に移動するのは無理だったからです。もちろん、もう一度版木を作るのは大変ですので、次の年、広東に帰ったとき、掘り出して使えばよいようにしたのですが、次の年に帰ってみて、びっくりしてしまいました。
版木は全部シロアリに食べられてしまっていたのです。がっかりしたでしょうね。でも、気を取り直し、もう一度全部やりなおしました。でも、そのような苦労をしながら、モリソンはウィリアム・ミルンという宣教師と協力して、中国語の聖書を完成させました。これはそれ以後、カール・ギュツラフとかエリヤ・コールマン・ブリッジマンという宣教師によって何度も改訂されて今も読み続けられています。
◇
浜島敏(はまじま・びん)
1937年、愛知県に生まれる。明治学院大学、同大学院修了。1968年4月、四国学院大学赴任。2004年3月同大学定年退職。現在、四国学院大学名誉教授。専攻は英語学、聖書翻訳研究。1974、5年には、英国内外聖書協会、大英図書館など、1995、6年にはロンドン大学、ヘブライ大学などにおいて資料収集と研究。2006年、日本聖書協会より、聖書事業功労者受賞。2014年7~9月、ロンドン日本語教会短期奉仕。神学博士。なお、聖書収集家として(現在約800点所蔵)、過去数回にわたり聖書展示会を行う。国際ギデオン協会会員。日本景教研究会会員。聖書の歴史、聖書翻訳に関する著書・翻訳書、論文多数。