カトリック修道会「イエズス会」の宣教師フランシスコ・ザビエル(1506~52)の遺体が、インド南部ゴア州オールドゴアで先月から10年ぶりに公開されている。今回の公開は来年1月4日まで。日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師として、日本人の多くがその名前を記憶していることだろう。だが、スペイン出身の彼の遺体が、なぜインドにあるのだろうか。
ザビエルと聞けば、敬虔な顔つきで、黒い修道士の服を着た肖像画が思い浮かぶ。さぞかし、信仰心あつい高貴なキリスト教徒だったろうと想像するが、そうした彼のイメージは、実際の人生のほんの一面に過ぎないものだった。
現在のスペイン・ナバラ州に位置する中世のナバラ王国で、貴族階級であるザビエル家の末子として誕生したフランシスコ・ザビエル。由緒ある家柄だったが、ナバラ王国がスペインに統一されたことで状況は一変する。家族を支えるために汗水流して働くが、貴族の末子の伝統にのっとり、聖職者の道に進むことを決める。聖職者になることは、信仰ゆえの動機ではなく、ただ名誉のためであった。若くして聖職者の道を歩み、ゆくゆくは枢機卿(カトリック教会における最高顧問)になって、故郷へ錦を飾ろうと考えていたのだ。
15歳で単身フランスのパリへ留学するが、洗練された都会の雰囲気の中で、信仰も薄く、若きフランシスコは学業よりも遊びに興じ、女・酒に明け暮れる毎日を過ごす。金を浪費し過ぎ、何度も故郷に学費をせがむ手紙を書いていたほどだ。
しかし24歳のとき、イグナチオ・デ・ロヨラと出会い、人生が変えられる。イグナチオは、地位と財産を捨てて路傍伝道に励み、疫病患者に手を差し伸べる信仰熱心な男で、その行いとにじみ出る教養から、人々の人望を勝ち得ていた。また、「霊操」という神と人間の人格的な交わりを説き、カトリック教会内で異端論争が起こるほど、大衆に影響を与えていた。
彼を通して神との個人的体験に導かれ、信仰に目覚めたフランシスコは、帰郷をやめる。イグナチオらと共に「清貧・貞潔の誓い」を立て、宣教会を結成。ローマで、当時の教皇パウルス3世に面会する。そして、修道会として正式に承認され、「イエズス会」が誕生する。
イエズス会は、路傍伝道・病院奉仕に勤しみ、決して大きな組織でなかったにもかかわらず、教皇の命を受ければ全世界どこへでも出ていった。ローマで事務仕事に励んでいたフランシスコも、ポルトガル王ジョアン3世の宣教師派遣要請を受けて、旅立つことになる。
1541年4月にポルトガルのリスボンを発ち、約1年後にインドのゴアに到着した。未知の世界と思っていたゴアだったが、すでに教会が建てられ、宣教活動が進められていた。フランシスコの仕事は、王と教皇の特使として、腐敗した教会を改革することだったのだ。しかし、フランシスコは病院に滞在し、地元民の介護に当たった。ただ洗礼を受けただけで、実態のないインドのクリスチャンのために、キリスト教の教えを簡単な歌詞にし、地元の曲調に乗せて口ずさませた。その献身的な働きにより、人々は村をあげて洗礼を受けた。
しかし、インドのカースト制の頂点に立つバラモンとの交流が難航し、堕落しきった地元のポルトガル人が宣教の妨げになったことから、さらに南のマラッカへ旅立つ。マラッカで、アンジロー(ヤジロウ)という一人の船員に洗礼を授けたフランシスコは、彼から、洗練され騎士道精神に溢れる国の話を聞く。ジパングだった。ゴアに呼び戻されるものの、ジパング、つまり現在の日本への渡航が頭から離れなくなったフランシスコは、アジア全域での宣教命令を教皇から委任されることで、その願いをかなえる。
薩摩(現在の鹿児島県)から周防(同山口県)に入ったフランシスコは、インドで行ったのと同じように、貧しい人々と同じみすぼらしい姿で路傍伝道を始める。しかし、そうした姿は日本人には受け入れられなかった。仏教界からも激しい反対に合い、京都で天皇に面会するものの、影響力がないことを知り落胆する。
そんな中、周防に戻る途中で啓示を受けたフランシスコは、みすぼらしい身なりをやめる。持っていた最も豪華な服に着替え、貴族の出自を明かし、国の大使と名乗って宣教活動を始めた。日本で一般にイメージされる「ザビエル」の姿はここから始まるのである。
周防の大内氏に贈り物を献上し、宣教の許可と協力を得ることに成功したフランシスコは、日本人と意見交換を行い、信頼関係を築くことに手を尽くした。宣教方法を日本式に変更し、仏典から聖書の言葉を説明することに着手する。これは、世界で類を見ない試みとなった。それまでのキリスト教宣教は、西洋文化を広めることと表裏一体であったが、フランシスコのこうした宣教で、日本独自の特徴を持ったキリスト教が誕生したのだ。
日本人との交流の中で、フランシスコは中国という大国の存在を知る。中国がアジアの源流であり、文化や宗教などさまざまな面で影響を与えていたことから、中国がキリスト教化すれば日本も変わると考えたフランシスコ。今度は日本を離れ、中国に上陸することを切望するようになる。
1552年、フランシスコはついに、ゴアを経由して中国を臨む小さな島、上川島(広東省の海島)に上陸する。当時の中国は上川島での最小限の貿易以外、西洋との交流を禁じていた。密航での上陸を試みていたフランシスコだったが、同年12月、冬になりすべての商業船が去った島で、志半ばで病により天に召された。46歳だった。
遺体は上川島で仮に葬られたが、弟子たちの手により、マラッカを経てゴアに持ち帰えられ、埋葬された。インドのゴアは、フランシスコがポルトガル王の命を受けて派遣された地であり、彼のアジアにおける宣教活動の拠点であった場所なのだ。そして、日本で持たれているイメージとは違い、地位や名誉を投げ捨てて、貧しい身なりで病人に仕えるという、本来の姿のフランシスコがいた場所なのである。彼の働きは、現在でも変わらずに語り継がれており、インドでは、キリスト教徒でない人々を含め、数百万人もの人が遺体を見ようと集まってくるという。
イエスの弟子以来、最も偉大な宣教師の一人と称されるフランシスコ。神がモーセの遺体を隠したように、フランシスコも、その遺体が注目を浴び、彼自身が称賛を受けることを喜んではいないかもしれない。しかし、この機会に思い起こしたいのは、地位や名誉、肩書を捨てて、病人や貧者に手を差し伸べた人物。遣わされたそれぞれの国に浸透しつつも、常に一人でも多くの人の救いを求め、宣教の道を開拓し続けた一人の人物だ。
時の権力者による激しい迫害にあっても、数多くの殉教者を出すほどに強いキリスト教信仰を抱いた人々がいたという歴史のある日本。近いうち、最大のキリスト教国となるであろうといわれている中国。これまでの、そして現在のアジアを見るときに、この人物の存在を思い出さずにはいられない。二度と故郷を見ることがなかったフランシスコ・ザビエルの人生に、神の導きを見出さずにはいられないのである。