[1]序
2章は、比較的長い章です。しかし全体としてのまとまり・統一性を見逃さないように、細かな点に注意を払うと同時に、2章全体として大きく見ることも大切にして行きます。そのために、1節から24節では、ネブカデネザルとダニエルと二人の人物が比べられ、25節から49節では、ネブカデネザルが見た夢の中で、人間の帝国と神の国が対比されていると見通すのは、2章全体の流れを知るため一つの大事な手掛かりになります。
[2]ネブカデネザル(1~13節)
すでに一章で見てきた、バビロンの王ネブカデネザルの姿に注意します。エルサレムを陥落させ、イスラエルの指導階級の人々をバビロンへ捕囚の民として連れ来たり、考え抜かれた教育政策をもって、自分の支配体制を確かなものにしているかに見えるネブカデネザル王。彼のありのままの姿を、1節から13節の箇所に見ます。
(1)「心が騒ぎ」(1節)
「ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった」(1節後半)。新バビロニヤ帝国(カルデヤ王朝)の創立者ナッポラッサルの子であり、父の後を継いで帝国最大の王となり、紀元前605年から562年までの長きに渡り、絶対的な権力をもって帝国を治めたネブカデネザル。その彼が、たかが夢のため、心が騒ぎ、不安の余り寝ることもできなかったというのです。
ネブカデネザルは、当時にあっては、すべてのものを手にしている、最も恵まれた立場にある人物と思われます。しかしその実心騒ぎ、不安の虜(とりこ)になっていたのです。「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう」(ルカの福音書9章25節)と、主イエスが警告なさっている事態が、まさにネブカデネザルにあてはまります。
この事実を、4世紀の後半に生きたアウグスティヌスは、「あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩(いこ)うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』第1巻、第1章、1節)と、神の御前に告白しています。
何を持っていても、例え全世界を手に入れても、主イエスにあって神の御前にホッとしていなければ、ネブカデネザルのように、心を騒がせ眠れもしない状態になる。これが神を認めない、現代人の姿と言えないでしょうか。
欠けだらけな私たちであっても、主イエス・キリストにあって、聖霊ご自身の導きで、「アバ、父よ」と、祈りつつ生きる平安(御霊の実は、愛、喜び、平安、ガラテヤ5章22節)が与えられています。
「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから」(詩篇3篇5節)と詩篇の記者は感謝しています。まさに、眠りの恵みです。
確かに、「なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手もこまねいて、また休む」(箴言6章9、10節)と指摘しているように、過ぎたるは及ばざるごとしの面もあります(マタイの福音書26章36節以下に見る、ゲッセマネの園の弟子たちの姿も私たちへの警告)。
(2)「王は怒り、大いにたけり狂い」(12節)
ネブカデネザル王は、「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか」(4章30節)と心の内に高ぶり、「神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる」(2章21節)と、ダニエルがほめたたえているように、主なる神の主権を認めようとしていないのです。
つまり生ける真の神様との間に平和(「神との平和」、ロマ5章1節)を持っていないのです。神と和解していないと、自分自身との和解もないのです。自分自身を喜んで認め受け入れることができず、心を騒がせ、不安な状態に陥るのです。
しかもそれだけではないのです。自分自身を認められないネブカデネザルは、自分の周囲の人々をも認め受け入れることができないのです。「王は怒り、大いにたけり狂い、バビロンの知者をすべて滅ぼせと命じた」(12節)とあるように、自分の周囲にある弱い立場にある人々に対して意地悪をし、残酷な仕打ちをするのです。
ネブカデネザルの場合ほど、大きな規模でないかもしれません。しかし同じことです。創造者なる生ける神様のうちに憩(いこ)い、安らぎを得ていないため、何を手に入れても心を騒がせ不安であるばかりか、周囲の人をいじめたり、残酷なことばをあびせ、冷たい仕打ちをしてします。人間関係がどうしてもうまく行かないのです。
小さなネブカデネザル、これが生ける神を信じない現代人の姿ではないでしょうか。
[3]ダニエル(14~24節)
ネブカデネザルに対してダニエルは、1章で見たように、捕囚の民として弱い立場にありました。本来の名前を奪われてしまうほどの有り様です。
しかしそのダニエルは、「アルヨクは急いでダニエルを王の前に連れて行き」(25節)とあるように、地上の支配者であるネブカデネザルの前に主なる神の証人として立つのです。ヨセフ、モーセ、エリシャ、イザヤ、エレミヤなどの旧約時代の預言者たちや、新約時代のパウロ、ペテロ、ヨハネがそれぞれの時代背景の中で歩んだと同じ道です。何よりも、「ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエス」(Ⅰテモテ6章13節)と明らかにされているように、主イエスが歩まれた道です。このダニエルの姿を、三つの点から見て行きます。
(1)「知恵と思慮とをもって応待」(14節)
ダニエルの言動の特徴は、知恵に満たされていることです。「主を恐れることは知識の初め」(箴言1章7節)。
そうです。主なる神に従い歩むダニエルの内に、「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である」(イザヤ11章2節)と預言されている、真の知恵に満ちた救い主イエスの姿が刻み込まれて行くのです。
(2)「天の神のあわれみを請い」(18節)
ダニエルは、王に夢の解き明かしをなさないなら命を奪うという厳しい命令に直面した時、「彼の同僚のハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤにこのことを知らせた」(17節)のです。そして、彼らは心を一つにして祈ったのです。「天の神のあわれみ」を祈り、神の栄光が、このバビロンにおいても現されるようにと祈ったのです。
ダニエル書6章10節には、時代は違いますが、やはり非常に困難な状況の中で、「彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた」とあります。「いつものように」との表現に注意。これは、ダニエルが年若い時から生涯に渡り、主なる神の御前に忠実に祈りの生活を続けていた事実を示しています。個人で祈ると同時に、共に集まり心を合わせて祈るのです。これこそ、ネブカデネザルに対比されるダニエルの生活と生涯の特徴の一つです。
(3)「天の神をほめたたえた」(19節)
ダニエルは、祈りの人でした。しかしそれだけではないのです。「ダニエルは天の神をほめたたえた」(19節)と、父なる神を礼拝しているのです。礼拝、それは礼拝する者の心が神にのみ向かっていることです。それに対して祈りは、自分に神が何をしてくださったか、またくださるようにと、自分にも目が向いています。神を礼拝しているダニエルは、「神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの」(20節)とほめたたえています。
そして21節から23節の箇所、新改訳では、「神は」と21節と22節の文頭でくりかえし、23節でも、「あなたは私に知恵と力とを賜い」と神の恵みをたたえています。神ご自身に心が向けられ、神の恵みがたたえられる時、「私はあなたに感謝し、あなたを賛美します」(23節)と礼拝をもっての応答がなされます。
このように、ダニエルは祈りと礼拝に生きているのです。
[4]結び
ネブカデネザルとダニエル。いずれの道を歩むか、選択は二つに一つ。ダニエルの道を思う時、祈りと礼拝に注目せざるを得ません。
(1)祈り
①ダニエルの生活と生涯から、私たちも個人的な祈りを学ぶ必要があります。「―彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。―彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神に祈り、感謝していた」(6章10節)のです。
私たちが個人的な祈りの生活を実践して行く場合、祈りの時と場所を十分考えることは、弱い私たちにとっては大切です。自分の体質、性格、生活環境などを十分配慮しながら、いつ、どこで個人的に祈るのか定め、実行するのです。これがダニエルの道です。
②しかしダニエルは、個人的に祈っただけではありません。17節、「それから、ダニエルは自分の家に帰り、彼の同僚のハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤにこのことを知らせた」に見たように、はっきりと祈りの課題をあげ、共に集い祈るのです。私たちで言えば、聖研・祈祷会の機会です。
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18章19、20節)。何と慰めに満ちた約束ではないでしょうか。
(2)礼拝
ダニエルのように主なる神をほめたたえつつ進もうとする時、主日礼拝は驚くべき恵みの機会です。主日礼拝を出発として、新しい週の歩みをなし、次の主日礼拝を目指して進むのです。1週ごとの主日礼拝を目指して進みながら、主イエス・キリストの再び来たり給う、特別な主日を待ち望むのです。やがての主の日への整えと備えがなされるのです。主日礼拝への態度をお互いに確立し、礼拝しつつ生活し、生活の場で礼拝しつつ進む。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。