ナルドの香油
マルコの福音書14章1節~11節
[1]序
(1)今回の聖書箇所は、いつもの順番通りではありません。前回味わった15章最後から16章1節へは進まず、14章1~11節に戻ります。
この箇所で一人の女性の姿をマルコは描いています。マルコが刻み続ける「神の子イエス・キリストの福音」(1章1節)を最初に読む読者たちに対して、「神の恵みに応答して、このように、この一人の女のように生きよ」と、マルコはモデル・模範(もはん)を示しています。そうです、今、ここでマルコの福音書を読み終えようとしている私たちが、「神の子イエス・キリストの福音」を聴従する者(マルコ8章34節)として、いかに歩むべきかひとりの女の生き様を通して明示してくれています。
(2)マルコ14章1~11節を、くりの実を内に含む、栗のいがと譬えるとすれば、その中心にある美味(おい)しい実に当たるのは、3節の後半、「ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ」事実です。ここに、つぼ割り人生の実例を私たちは見るのです。
[2]栗のいが、三つの逆流
ひとりの女の行為(3節後半)に対する、何人かの者の間髪(かんぱつ)を入れない反応・憤慨(ふんがい、4、5節)。それを挟み前に位置する1、2節に見る指導者たちの心根、後に続くイスカリオテ・ユダについての記述を注意。
(1)4、5節、何人かの者の憤慨(ふんがい)
①4節、主イエスに対するひとりの女の行為は、「何のために、香油をこんなにむだにしたのか」と何人かの者に断定されてしまいます。
断定の根拠・物差しは、彼らの理性、良心、常識など、本来良いもの。それら(それ自体は悪、誤りでなく良きもの)が、ひとりの女の主イエスに対する心からの愛、それこそ最善・最高のものに対し鋭く敵対。
◆日本クリスチャンカレッジのホ-ク学長のことば、「ベスト・最善の敵は、悪ではなく、グット・良いものであり、時にはベター・より良いものですらある」。
②5節前半、「この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに」との意見。この意見そのものは正しく、主イエスも決して否定なさっていません。問題は、誰が、どのような状況(前後関係の中)でその意見を言い、言うだけで本人は何も実行しない点です。
③「その女をきびしく責めた」。越権行為。分を知らず、分を越えた言動。
(2)祭司長や律法学者たちの主イエスに対する敵意・悪意(1、2節)
①1節、「どうしたらイエスをだまして捕らえ、殺すことができるだろうか、とけんめいであった」。主イエスに対する悪意、敵意。なぜそれほどまでの思いを抱いたのか、その理由が説明できなくとも、その事実は確認する必要があります(参照・ヨハネ1章10、11節、Ⅰコリント2章7、8節)。
②2節、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」。指導者たちの民衆に対する恐れ、いつの時代も。
(3)イスカリオテのユダ(10、11節)
①「ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った」。十二弟子のひとりであった事実をマルコは事実として描く。
②「ユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた」。なにをねらって、私たちは日々生きているのでしょうか。
[3]栗の中味・美味(びみ)、この女性に対する主イエスの評価と約束
(1)4、5節に見る断定に対し、主イエスの指摘・反論
①「そのままにしておきなさい」(6節前半)。他者に対する分を越えた介入。
②「なぜこの人を困らせるのですか」。相手の立場に立ち、判断を。
③貧しい人たちと主イエスの対比。「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます」。彼らは「したい」と決して思わないとすれば、これは強烈な皮肉。「しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません」。機会を見逃さない女と何もしない彼らとの鋭い対比。
(2)6節後半、8節
①「わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです」(6節後半)
②「この女は、自分にできることをしたのです」(8節)
③「埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」(8節)
用意の要は、主イエスの復活、「からだのよみがえり」の信仰。
(3)主イエスの約束(9節)
①「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら」
世界宣教の命令(マタイ28章18~20節)。2千年後の今、私たちにおいても成就している現実。
②「この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう」
参照、ルカ4章16~30節の場面、21節の主イエスのことば、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたの聞いたとおり実現しました」。
[4]結び
ナルドの香油の女、そのつぼ割り人生に学ぶ。
(1)「むだ」をめぐる二面
①一面では、神の恵みを「むだ」にしない。あの放蕩息子のようには。「放蕩して湯水のように財産を使ってしま」(ルカ15章13節)わない細心さ。
②他の面では、主イエスのためには、人々から「むだ」ときびしく責められることがあっても、最高のささげものを。神の恵みに応答して、「自分のできる」最善をなす、人々のいうところの「むだ」を恐れない大胆さ。
(2)つぼ割り人生を、教理と実践の麗(うるわ)しい一致
このナルドの香油の記事(参照・マタイ26章6~13節、ルカ7章37~39節、ヨハネ12章1~8節)を読むとき、私たちは最高に美しい絵画を見る思いがします。そしてこの場面を通し教えられる中心メッセージ(マルコ8章34~38節)は、他の聖書箇所でも以下のように、それぞれ特徴ある表現で明示されています。
その幾つかを以下に確認します。ロ-マ12章1、2節、物差しが理性・良心 → 神の御心がすべての中心へ。
①マタイ6章33節、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。11章28~30節。
②マルコ3章35節、「神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」。
③Ⅰコリント6章19、20節、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」。
④ガラテヤ2章20節、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」。
⑤エペソ2章1~11節。4章23節、「またあなたがたが心の霊において新しくされ」。
しかしこの場面の迫力は、単に教理が教えているだけでなく、ひとりの女の実践を描く事実にあります。単に教えを学ぶだけでなく、その実践をもとに静かに私たちに訴えているマルコの意図を、心にしっかり刻みたいのです。そうです、聖霊ご自身の助けを心より求めつつ。
◆ある宗教改革者のことば、「単に御言葉への聴従ではなく、人間の精神が、自らの肉的感覚をむなしくして、神のよしとしたもうままに、全面的に変わることを指す」(カルヴァン)。
『彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。エレサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行われたことを、みなに報告した』」(使徒の働き15章3、4節)
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。