この方はまことに神の子
マルコの福音書15章33節~41節
[1]序
今回の箇所に、二つの柱を建て、意を注ぎます。
第一の柱は、「主イエスご自身は」です。
第二の柱は、「そばに立っていた人々」です。
[2]主イエスご自身は
この箇所で、主イエスご自身について、二つの際立つ点をマルコは伝えています。
(1)「イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(34節)
(2)「イエスは大声をあげて息を引き取られた」(37節)、「イエスがこのように息を引き取られた」(39節)
ここに見る主イエスご自身の死については、次回(マルコ15章42~47節、『死にて、陰府にくだり』)で、心を注ぎます。
[3]そばに立っていた人々
(1)「そばに立っていた幾人か」
「そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、『そら、エリヤを呼んでいる』と言った」。これは、主イエスのことばを聞き、聖書を読んでも誤解したり、さらには曲解したりする可能性、危険性を教え、私たちに注意を呼びかけるものです。
この箇所の場合でも、「ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。『エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう』」(35、36節)と、見当はずれな言動を見ます。
(2)「イエスの正面に立っていた百人隊長」
主イエスと一緒に十字架につけられた強盗の一人の場合(ルカ23章39~43節)と同様、思いがけない場所で、思いがけない人によって、主イエスに対する信仰告白がなされています。
ペテロの「あなたは、キリストです」(マルコ8章29節)との主イエスに対する信仰告白のことば、切り味鋭い短刀のようです。
そして、この百人隊長の明言、「この方はまことに神の子であった」も、ローマの軍人である彼らしい、簡潔率直なキリスト信仰の告白です。
主イエスに対して、「キリスト」や「神の子」以外にも、数多くキリスト信仰の告白のことばを新約聖書に見出します。
(3)「女たちも」
40節と41節で、マルコが描く「女たち」の姿。これは、彼女たちのキリスト信仰の告白そのものです。キリスト信仰は、百人隊長の場合のように、ことばでなされるばかりでなく、「女たち」が体現するように、生活と生涯を通してもなされるのです(参照・マルコ8章34節)。
「女たち」については、さらに次々回(マルコ14章1~11節、『ナルドの香油』)において、一人の実例を掘り下げます。
[4]結び
主イエスに対する信仰告白のことば・称号を、以下のようにあげ、それら一つ一つが、またその全体が指し示している、主イエスご自身に心の視線を定めたいのです。
(1)メシア
旧約時代を貫き待ち望まれていた、メシア・救い主・キリストについての約束・希望は、主イエスにおいて成就。その成就の過程(かてい)において、人々の期待や思い込み(政治的メシアなど)と主イエスの実際とは、鋭くまた大きな相違がありました。主イエスは、メシアとして他者のため苦しむ生き様とメシアとしての死をもって、父なる神の御心を成就。
(2)ダビデの子
(3)しもべ、主のしもべ、苦難のしもべ(マルコ10章45節)
(4)預言者、教師
(5)人の子
(6)主
新約聖書では、「主・キュリオス」とは、旧約聖書が指し示している、創造者なる神ご自身ついて(マタイ1章20節、ルカ4章18節)。
そして新約聖書では、「主・キュリオス」という称号は集中的に主イエスを指しています(ローマ10章9節、Ⅰコリント12章3節、参照・マタイ28章18~20節)。
新約聖書の時代の世間一般的では、「主」とは、王とか偶像の神々を指していました。その代表的な実例は、自らを神格化したローマ皇帝。
主イエスとは、ローマ皇帝ではなく、十字架で死に、復活なさったお方こそ、まことに「主」なるお方との告白です。まさに戦闘の教会です(参照・黙示録17章14節、19章16節)。
参照、日本における天皇制の現実の中で、「イエスは主」との信仰告白。
(7)神の子
(8)ロゴス
(9)「わたしは、……である」
ヨハネの福音書に見る特徴ある表現。
(10)最後のアダム
(11)神
「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神』」(ヨハネ20章28節)
これらの主イエスの称号一つ一つ、また全体を通して、主イエスは特別な(無比な意味で)お方、全き人となられた全き神であることを明示しています。その事実の故に、称号が与えられているのです。
聖書が証しするこのお方を、聖霊ご自身の導きにより心に刻んで頂くのです。このお方に、私たちの生活・生涯を通して聴従し、服従し続けるのです。
マルコ1章1節、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。これこそ、マルコの福音書の表題であり、内容の要約です。
「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです」(Ⅰテサロニケ5章10節)
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。