主のおことばを思い出して
マルコの福音書14章53節~72節
[1]序
今回は、マルコ14章53節から14章最後の節・72節までの箇所を味わいます。
この箇所は、前半53節から65節、議会の前での主イエスの姿を描く場面と後半66節から72節、ペテロが主イエスを知らないと否認する場面に分けることができます。私たちが特に注意すべき点は、この前半と後半の場面の密接な関係です。二つの場面の結びつきを明示する、54節がカギの聖句です。
53節では、主イエスを裁こうとする議会が、どのような人々により構成されているかを明らかにしています。そして55節に見るように、裁判が進行して行くわけです。ところが54節では、「ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まで入って行った」と、ペテロの姿を描いています。この54節は、議会の前の主イエスの姿を描く直接の目的から見れば、かっこに入れてよいものです。
またペテロ自身の姿を描くのは、54節に続き66節においてです。ですからペテロの記事を中心に見れば、55節から65節を逆にかっこに入れると、話の進展がよく見えてきます。
こうした流れの中で、54節の役割を確認したいのです。この54節は、前半の議会の前の主イエスの姿を描く場面と、後半のペテロが主イエスを知らないと否認する場面が同時に進行していることを伝えてくれます。
[2]議会の前の主イエス(53~65節)
66節以下で、ペテロが主イエスを知らないと三回否認する様を描いているように、この議会の前の主イエスを描く場面も、同じく三つの部分に分けることができます。
(1)55、56節
裁判の第一段階を、55、56節に見ます。
55節には、「イエスを死刑にするために」とあり、主イエスに対する裁判の性格を、よく示しています。最初から目標となる判決を決めていたのです。死刑の判決をもっともらしく見せるために、証拠と言われるもの、また証言を集めるわけです。
当然ですが、「イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった」のです。
また証言についても、確かに「イエスに対する偽証をした者は多かった」のですが、彼らの間で、「一致しなかった」のです。これが第一段階です。
(2)57~59節
証拠をあげることができず、偽証も一致しない状態から、次の段階へ裁判は進展します。
主イエスに対する偽証が、神殿とのかかわりの一点に絞られます。
「わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる」と、主イエスが語ったと偽証します。
マルコ13章において、私たちは、「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」(2節)と、主イエスが語られた事実を見ました。これは、紀元70年の際、ローマ軍による破壊を主イエスが預言したものと私たちは理解したのです。
神殿破壊の事実を指し示した主イエスに対して、神殿破壊を自らなすと言ったと偽証するわけです。神殿破壊に主イエスが言及なさったことは事実です。しかし神殿破壊を自らなすと主張したというのは、明らかに偽証です。ここでも、全く根拠のないことではなく、偽証の内容の一部は事実であり、一部は偽りであるのを見ます。この偽証もそれなりの影響を与えた理由を、ここに見ます。
(3)60~65節
60~65節の箇所には、議会による裁判の第三部、その頂点を見ます。
①「そこで大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出てイエスに尋ねて言った」(60節)、いわば主席裁判官・裁判長である大祭司が主イエスの方に進み出て尋ねたと、緊迫した状態をマルコは描いています。神殿破壊についての偽証に対して、主イエスの沈黙。この沈黙に耐えられないかのように、大祭司は、「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが」と迫るのです。しかし主イエスは、「黙ったままで、何もお答えにならなかった」(61節)のです。
②主イエスの沈黙を前に、大祭司は、「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか」(61節)と、遠回しではなく、一番中心となる問いを直接尋ね、主イエスの答えを求めます。
「わたしは、それです」。主イエスの答えは、実に率直で、力強いものです。
「わたしは、それです」、「わたしは、……です」とは、主イエスがご自身についてどのように考え、どのように宣言なさったか自己理解を示す、大切な表現。特にヨハネの福音書において、この表現を用いた主イエスの宣言を私たちは見い出します。
「わたしは良い牧者です」(ヨハネ10章14節)
「わたしは、よみがえりです」(11章25節)
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(14章6節)
議会の前で、主イエスは、「わたしは、それです」に続き、「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです」(62節)と明言なさいます。
③大祭司は、主イエスの宣言の意味を理解したのです。主イエスのことばは、自らを神とする、「神をけがす」ものだと。そして「イエスには死刑に当たる罪があると決めた」(64節)のです(参照・ヨハネ8章56~58節)。
65節に見る、主イエスに対する彼らの仕打ち。
[3]ペテロが主イエスを知らないと三回否認(66~72節)
私たちは、14章27~31節において、主イエスのペテロの否認についての予告を見、その際、ペテロがそれを強く否定していた様を読みました。それはペテロだけでなく、他の弟子たちも同様でした。
ペテロがゲッセマネにおいてどのようであったか、また50節、「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった」でも、弟子たちの実情が明らかにされています。その上で、この箇所のペテロの姿を見るのです。
(1)66~68節
「ペテロが下の庭にいると」(66節)。これは、主イエスの裁判が一段高い場所に建てられた建物でなされていると同時に、一段低いところにある庭で、ペテロの主イエスを知らないとの否認がなされたことを示しています。
「大祭司の女中のひとりが……彼をじっと見つめて」と、その場面が目に浮かぶようです。
(2)69~70節前半
「すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、『この人はあの仲間です』」(69節)と、ペテロに、一人で迫るのでなく、他の人の助力を得ようするのです。
(3)70節後半~72節
「しばらくすると、そばに立っていたその人たちが」(70節)、「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから」(70節)と、さらに一段と鋭くペテロに迫ります。
またペテロの主イエスを知らないとの否認も頂点に達します(71節)。まさにそのとき、72節にマルコが描くことが事実となったのです。
72節において、特に二つの点を注意。
①「イエスのおことばを思い出し」
②「それに思い当たったとき」
[4]結び
今回私たちは、以下の二点について特に教えられました。
(1)主イエスの宣言
主イエスがご自身について確言なさったことこそ、使徒信條における、聖書の教えに基づく主イエスについての信仰告白の基盤です。
(2)主イエスのことば
主イエスが語られたことばは、ペテロの思いを越えて彼の心の深みに届き、保たれていたのです。ペテロが一番必要としていたときに、彼のうちに思い起こさせられたのです。主イエスのことばと共に、主イエスご自身がペテロを見つめられたことをルカは記しています。
「しかしペテロは、『あなたの言うことは私にはわかりません』と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた」(ルカ22章60~62節)
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。