イスラエルの望みのために
使徒の働き28章23節~28節
[1]序
今回は使徒の働き28章23~28節をともに味わいます。
前回は、17節から22節までローマにおけるパウロとユダヤ人の代表者たちが出会う記事を学びました。今回の23節以下は、それに引き続く第二回目の面会の記事です。
23節には福音宣教に励むパウロの姿。24節と25節前半では、ユダヤ人代表者たちの応答。そして25節後半から27節まででは、イザヤ書6章9節と10節を引用し、パウロがユダヤ人の代表者になしている宣言を記しています。
今回は23節から25節前半までを中心に、「語り続けるパウロ」の姿に注目します。パウロの宣教に対して、ユダヤ人の代表者たちがどのように応答しているか、ルカの報告に耳を傾けたいのです。
[2]語り続けるパウロ-何をいかに-
23節は、30節や31節とともに、福音宣教に専念するパウロを描いています。28章に及ぶ『使徒の働き』の最後を飾るにふさわしい描写です。番兵付きで監視され、その上鎖につながれている制約の中で、朝から晩までひたすら福音を語り続けるパウロの姿。
(1)何を-「神の国」と「イエスのこと」-
パウロがユダヤ人の代表者たちに朝から晩まで語り続けていたのは、「神の国」と「イエスのこと」だとルカは伝えています。
「神の国」は福音の中心であり、全内容です。唯一の、生ける、真の神が万物を創造し、これを統治なさっている。この主なる神の統治と保持の事実こそ、「神の国」の実体です。他の表現で言えば、「神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいた」(使徒の働き20章27節)と、パウロがエペソ教会の長老たちに語っている「神のご計画の全体」。
「神のご計画の全体」とあります。一部でなく、全体です。一面ではなく、全面です。主なる神は、主イエスのご生涯(ことばと御業)全体を通してご自身を示しておられます。主イエス・キリストご自身を通して、「神の国」が明らかにされています。「神の国」と「イエスのこと」は、切り離すことができないのです。そして主イエスが再び来り給うときに成就する新天新地こそ、神の国の頂点です。
(2)いかに
パウロが何を語り続けたかばかりでなく、いかに語り続けたかについても、ルカは伝えています。「あかしする」と「モーセの律法と預言者たちの書によって、説得しようとした」と二つの点です。
①「あかしする」
パウロは「あかしする」のです。事実の目撃者、実際に自らの生涯において経験した事柄を、パウロは生き証人として語り続けているのです。これは、エルサレムの民衆(参照・22章3節以下)やアグリッパ王の面前で(参照・26章1節以下)、パウロがダマスコ途上の経験を中心に証言したのと全く同じ態度です。
しかも漠然と証言しているのではなく、パウロは語りかけている相手を説得し、彼らがパウロ自身と同じく主イエスを信じ従うように強烈な気迫で証言しているのです。
その様子は、パウロの証言の力強さに圧倒されたアグリッパ王の、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」(26章28節)との応答のことばからも察知できます。何よりも、そのアグリッパ王に、「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです」(26章29節)と断言しているパウロのことばに込められている気迫が、パウロの態度の特徴です。
②「モーセの律法と預言者たちの書によって」
「いかに」と考えるとき、「あかしする」とともに、「モーセの律法と預言者たちの書によって」との側面も大切です。「モーセの律法と預言者たち」、つまり旧約聖書全体に基づく宣教です。パウロが旧約聖書をいかに詳細綿密に読み進めながら宣教を展開しているかは、パウロがピデヤのアンテオケでなした宣教(13章16節以下)などを通して見ることができました。
[3]その結果は
パウロがユダヤ人の代表者たちに、朝から晩まで語り続け、「神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした」結果は、どうなったのでしょうか。パウロが他の所で福音を宣べ伝えた場合と全く同じです。ある人々は、パウロが宣べ伝える福音を聞いて信じたのです。ある人々は信じようとしなかったのです。
(1)ある人々は信じた
パウロが各地で福音を宣べ伝えるとき、福音を聞いて主イエスを信じる人々が必ず起こされてきました。エルサレムでも、アンテオケでも、あのアテネにおいてすらそうでした。またコリントでもエペソでも、そして今ローマにおいても。
いずれの場所においても福音を宣べ伝えるとき、主イエスを信じる人々が必ず起こされる恵みの事実を使徒の働き全体が明らかにしています。福音が宣べ伝えられるとき、ある人々は心を開き、主イエスに従うようになる恵みが現実となります。
(2)ある人々は信じようとしなかった
福音が宣べ伝えられるとき、もう一つの現実も起きます。何故なのか、その理由は明らかにされていませんが、事実として、福音を聞くすべての人々が主イエスを信じるわけではないのです。ローマにおいてもそうでした。
ですから、すべての人々が主イエスを信じないからと言って、福音を宣べ伝えることをパウロたちは中断することなどないのです。
福音を聞くとき、早かれ遅かれ決断を迫られます。
そして主イエスご自身が明言なさっているように、主イエスに対する態度によって人々の間に分裂が生じます(マタイ10章34~39節)。福音を聞いた人々が直面する決断は厳しいものです。
[4]結び
23節から25節前半に見る、ローマにおけるパウロの福音宣教の記事を通して確認できる事実は、何もローマにおいてのみ起こった特別なことではないのです。パウロはコリントでもエペソでもいずれの場所でも一貫してなし続けて来た宣教の働きを、ローマでもなしたのです。まさに同じ福音(「神の国」と「イエスのこと」)をパウロは語り続けたのです。同じ態度でそうしたのです。個人的な生きた経験に基づき「あかし」をなし、相手にも個人的な信仰の決断を求めて行く。
また聖書全体にしっかり根差し、聖書を正しく、深く、豊かに読みつつ福音を宣べ伝えて行く。この基本的な使命を、今ローマにおいても、制約の中に苦しみながらパウロは継続していくのです。その結果はと言えば、いずれの場所とも同じです。ある人々は信じ、ある人々は信じない。
ローマを含めて特別な場所はないのです。私たちの場所においても。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。