エルサレムで、ローマで
使徒の働き23章11節
[1]序
今回は使徒の働き23章11節に焦点を絞り味わいます。
まず前後関係を注意。23章1~10節では、パウロが議会で証言をなす次第をルカは記録しています。6節に見るパウロのことばを引き金にして、「パリサイ人とザドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れた」(7節)のです。
騒ぎは「いよいよ大きくなり」(9節)、「論争がますます激しくなり」(10節)、千人隊長ルシヤは、パウロが引き裂かれてしまうのではないかと心配し、「パウロを彼らの中から力ずくで引き出し、兵営に連れて来るように命じた」(10節)程です。
パウロは、騒ぎの中、論争の中心に立っていたのです。こうした激しい一日をパウロは送り、その中から力ずくで引き出され、兵営に軟禁状態で留め置かれていました。
「その夜」、11節に見る経験をパウロはなしたのです。昼間の目の回りそうな経験。そして夜、主イエスの個人的で静かな語りかけを受ける。パウロはこの両方の経験を重ねているのです。
また12節以下は、パウロに対して殺害計画が誓いをもって立てられていく記事です。この激しい戦いを乗り越えていくため、パウロは11節に見る経験をなす必要があるのです。このように、11節は、直前と直後の部分と深く結ばれており、前後から切り離し孤立した出来事と見ることは許されないのです。
11節の内容を、主イエスがパウロのそばに立ち、「勇気を出しなさい」と語りかけている部分と、「エルサレムでわたしのことをあかししたように」と、パウロのエルサレムにおける働き(21章17節以下)を主が認め、「ローマでもあかしをしなければならない」と、将来の使命を明らかにしている部分に分け味わいます。
[2]主がパウロのそばに立ち
(1)そばに立ち
23章10節までに見たような大変な一日。
しかし人々の面前でパウロが経験したことがすべてではないのです。「その夜、主がパウロのそばに立」たれたのです。この「そばに立つ」ということばは、新約聖書で21回用いられています。その中で、ルカの福音書で7回、使徒の働きで11回と、ルカが圧倒的な比率で用いています。つまりルカ以外では、パウロが三回用いているに過ぎないのです。ルカ特愛の用語と言っても過言ではない。この表現を用い、思いも寄らないお方や事柄が臨むとか、親しく身辺に近付く事実をルカは強調しています。
たとえばあのクリスマスの記事の一つで、この言葉を用いています。野原の羊飼いたちがよき知らせを聞く場面で、「主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた」(ルカ2章9節)とあります。
主の使いは羊飼いたちの所まで近付き、彼らに救い主誕生のニュースを伝えたのです。そうです。主は、兵営の中で軟禁されているパウロの「ところに来て」くださったのです。
(2)「勇気を出しなさい」
軟禁されているパウロのところまで来て、彼のそばに立った主は、まず、「勇気を出しなさい」と語りかけなさるのです。
この「勇気を出しなさい」という言葉は、新約聖書で7回用いられています。
主イエスの弟子たちが、バルテマイに対して語る場面(マルコ10章49節)一回以外、他の全部は、主イエスご自身が人々に呼びかける際用いておられます。
たとえばマタイの福音書9章2節。「すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された』と言われた」。ここで、「しっかりしなさい」と訳されている言葉は、今味わっている箇所で「勇気を出しなさい」と訳されているのと同じ言葉なのです。
またマタイの福音書14章27節でも、この言葉は用いられています。嵐の湖上で、向かい風のため、波に悩まされている弟子たち。彼らに、主イエスは近付かれるのです。湖の上を歩いて自分たちの方に進んで来られる主イエスを目撃して、弟子たちは「おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げ」(マタイ14章26節)ます。そのような弟子たちに、主イエスは、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけられるのです。
さらにヨハネ16章33節の用例も大切です。主イエスは十字架を直前にし、弟子たちに宣言なさいます。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と。
以上の用例から、主イエスが「勇気を出しなさい」と呼び掛けるとき、弟子たちに何を頼りに「しっかりする」べきか、その根拠を示しておられます。ヨハネ14章26節の場合も同じです。弟子たちに勇敢でありなさいと勧める際、「わたしはすでに世に勝っている」と、弟子たちが真に勇敢であり得る根拠を明示なさっているのです。
主はパウロに、「勇気を出しなさい」と呼び掛ける時、パウロが委ねられている使命(主のあかしをなす)をエルサレムでなしたばかりでなく、ローマにおいてもあかしをなすと、使命遂行の約束と命令を勇気を持つ根拠として示しておられます。主なる神からの使命を悟るとき、人は真に勇気ある者と変えられて行きます。
[3]エルサレムで、ローマで
(1)エルサレムで
今まで見てきたように、21章17節以下に描かれている、エルサレムにおけるパウロの宣教活動は、決して順調なものとは言えません。
現に今もローマ軍の兵営でパウロは軟禁状態なのです。目指し続けてきたエルサレム。しかしそこで十分なあかしをなし得なかったとパウロは自分の働きについて自ら評価して苦しんでいたのではないでしょうか。エルサレムでは困難に直面し続け、挫折を繰り返して来たように見えます。しかしその中でパウロは立派に主の恵みのあかしをなし得たと、主イエスご自身が認めておられるのです。これは実に驚くべき慰めです。
(2)ローマで
しかし、主イエスはパウロのエルサレムでのあかしを認めてくださるだけではないのです。パウロに委ねている将来の使命を明示、ローマでも主のあかしをなすと宣言し、主イエスはパウロを心底励ましなさるのです。
主のあかしは、エルサレムばかりではなく、ローマにおいても語られる必要があるのです。そのために、主はパウロを選び用いようとなさっています。種々の困難を通してではあります。しかし主なる神から委ねられている使命は必ず遂行されて行くのです。
主イエスを通し現実とされている神の恵みは、単にユダヤ人だけでなく、異邦人たちにも与えられているのです。ですから、パウロはエルサレムで主のあかしをなすばかりでなく、ローマにおいても、主のあかしをなす必要があります。
[4]結び
パウロはローマでも主のあかしをなす。
そうです。23章12節以下は、ローマでのあかしをパウロがどのように現実になして行くか、その経過の記録と見ることができます。その道は決して簡単ではないのです。そのため、軟禁状態のパウロに、主イエスご自身が近付き、励まして、使命遂行の備えをなして下さるのです。
ローマばかりでなく、世界のすべての場所で、主のあかしはなされるべきです。主イエスご自身に励まされて。
私たちはパウロに比すべきような者ではありません。しかしこのような私たちにも、私たちのエルサレムで、主はあかしをなすことを許し、期待してくださり、命じておられるのです。
そればかりではないのです。私たちのローマにおいても、主のあかしをなすことを主ご自身が望んでおられるのです。私たち各自また教会の群れ全体にとって、どこを私たちのローマとして主なる神は定めておられるのでしょうか。そのためにも、私たちは今与えられている現場で忠実に忍耐をもって歩みを続けるべきです。私たちのエルサレムを大切にしたい。私たちのエルサレムでのあかしを大切にしたいものです。
「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」(ローマ12章11、12節)
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。