悔い改めと信仰
使徒の働き20章18節~21節
[1]序
今回は、使徒20章18節以下を味わいます。
使徒の働き20章18節から35節は、パウロがエペソ教会の長老たち(17節)に語った心からの勧告です。つまりパウロがキリストの教会に直接宣教した内容を詳しく伝えています。この宣教は、四つの部分に大別できます。
①18~21節、パウロがエペソでどのように福音宣教をなし、教会形勢に励んだか、過去の事柄をパウロは語っています。
②22~24節、パウロの現在について。
③25~31節、 未来の事柄について.
④32~35節、 結びの部分。
これから四回、エペソ教会の実例を通して主なる神の語りかけを聞き、私たち各自が、また教会の群れ全体が応答して行くため、主なる神の導きを求めつつ進みたいのです。
パウロはエペソ教会の長老たちに語りかけるにあたり、「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです」(18節)と、自分自身の生き方から始めます。
パウロの生き方(19節)の中心は、「主に仕えた」事実です。主イエスのしもべとして、主イエスから委ねられた使命・責任を忠実に果たし続ける。20節と21節に明示しているように、福音を余す所なく伝え、人々が神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰に導かれるよう励み、教会の形成に専念したのです。
[2]教えるパウロ、積極的にまた全体的に
主イエスから委ねられた使命を、エペソで果たし続けるパウロ。彼の働きの中心は、教えること、福音を宣べ伝えることです。20節、「益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え」、また27節、「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです」において、パウロがどのように福音を宣べ伝えたか、ルカは明らかにしています。
(1)積極的に、全体的に
パウロは、エペソでの宣教活動について、「益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました」(20節)と語っています。パウロがいかに積極的に福音を宣べ伝えたか、その熱意が伝わってきます。
パウロは、福音の豊かな内容の全体を少しも水増ししたり、割り引いたりすることなく、時間を費やし、人々の受け入れ能力を十分に配慮して、忍耐深く教え続けたのです。「謙遜の限りを尽くし」、しかも決して妥協せず、パウロは積極的に全力で福音を伝えたのです。
「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいた」(27節)とパウロが述べていることも注目。パウロは、神のご計画の一面のみ、一部だけを伝えるだけで満足していないのです。「神のご計画の全体」を教え、福音を全体的に伝えたのです。
(2)人々の前でも、家々でも
パウロは福音宣教の場についても、「人々の前でも、家々でも」と明示しています。
「人々の前」とは、公衆の面前との意味。公の場で、パウロは福音の豊かさを全体的に教え続けたのです。
しかしそれだけでなく、「家々でも」教えたのです。家の教会や家庭集会などで、より個人的に、一人一人に直接教える機会をパウロは大切にしているのです。「夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください」(31節)と。
(3)ユダヤ人にもギリシャ人にも
では、パウロはどのような人々に福音の豊かな全体を教え、個人的に訓戒し続けたのでしょうか。「ユダヤ人にもギリシャ人にも」です。
ユダヤ人だけでも、ギリシャ人だけでもない。ある特定な人々だけに福音を宣べ伝えたのではないのです。ユダヤ人とギリシャ人の差別を越えて、すべての人々に。年令の高い低い、経済的な豊かさ貧しさ、学歴の有無、こうした人間的な差別を越えて、福音宣教の対象は広がります。
[3]神に対する悔い改め、主イエスに対する信仰
(1)神に対する悔い改め
パウロが教えるとき、彼はあれもこれも教え、単に知識の量をどんどん増加させ、物知りを生み出すことを目指してはいません。
21節を注目。「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです」。福音宣教とは、単に良い教えを伝えることだけではないのです。自分を中心に生きて来た者が、天地万物を創造し統治なさっている、生ける神の御前に、神の御旨に従い生きる責任を教えられ、生ける神中心の生き方へと百八十度方向を転換する。この神に対する悔い改めを、パウロはエペソで目指し実現したのです。
(2)主イエスに対する信仰
人間として生きるべき当然な生き方をなしていない。生ける神の御前における恐るべき忘恩と自らの底知れない惨めさを告白するとき、このような私のため身代わりとなり十字架の死を死なれた主イエスを見上げよと、父なる神の呼び掛けを聞くのです。
主イエスの尊い犠牲により、赦されべからざる私の罪の代価が支払われ、ただ主イエスの故に赦され、生かされている恵みの事実を知る。私のために死に、死と罪に打ち勝ち復活なさった主イエスご自身が、私ごとき者と共に歩みをなしてくださるのです。
この恵みに答え、主イエスに従い主イエスの望まれる所に進み、主イエスが望まれることをなし、主イエスとの生ける人格的な交わりの中に生かされて行く。これこそ、パウロがエペソで福音宣教を通して目指していた、主イエスに対する信仰です。
[4]結び
パウロはエペソにおいて神のご計画の全体を、時間をかけ忍耐しつつ伝え続けたのです。一人一人が、神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰に導かれるように目指し、「謙遜の限りを尽くし」、涙と共に福音の種を蒔き続けたのです。
今、ここでも主なる神の求めは同じです。エペソでのパウロの場合と同じ意味で福音宣教がなされ続けるよう、共に祈ります。
牧師、教会の教師たち、各家長たちが「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張し」、実を結び続けるように。
パウロの目標を、パウロがなした方法で、私たちも。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。