第3章 ウルトラ良い子の抑圧の最大要因
Ⅳ. 両親からの抑圧と諸問題
1)父の役割と母の役割の欠如による抑圧の素地
⑤尊厳ある父像と敬虔なる母像の欠如
さて、父母の役割の欠如のゆえの抑圧の素地づくりという点についてこまごまと述べてきたが、この点に関していま一つの点を指摘しておきたい。それは我が子に対する父親の尊厳性と母親の敬虔(けいけん)性についてである。子供たちが成長するに従って、その子供たちの人格形成にとって必要不可欠な父親像と母親像は、“尊厳ある父親像”と“敬虔な母親像”なのである。
そこでまず“尊厳ある父親像”とは何か。それは単に父親の威厳や権威を意味しているのではない。とかく世間では「昨今の父親は、権威がなく、父権が失墜している」などと言われているが、何も父親が権威的である必要などまったくない。しかし、尊厳ある父である必要がある。
“尊厳ある父”とは、その存在は物静かで頼もしく、口数も少なく、慈しみに富み、常に母と子が安心して日々を過ごせるように、どんな社会的、経済的な不安も寄せ付けず、いざという場面では常に勇敢に前面に躍り出て身を呈し、雄々しく問題を処理してくれる極めて尊い存在であることを意味する。そして小さな事柄には口出しせず、常に大所高所から大局を見て物事を的確に判断し、正しい道に家族を導いてくれる、そのような父親を“尊厳ある父”と言う。
ところがそうではなく、常に口やかましく小言を言い、何かにつけ父親の権威をかざし怒鳴りつけ、時には機嫌を損ねれば殴られる、そのくせいざここ一番という大切な場面で責任を回避し、何もかも母親に問題処理をさせる父、それでいて普段はほとんど仕事のため家におらず、家におる時にはだらだらとテレビを見て何もせず過ごす父、このような父親像は、まさに最悪である。
ちなみに、子供たちは本来“尊厳ある父親像”から、いつしか人間としての真の社会性というべきものを身につけて行くべきはずなのである。ところが残念ながら今日多くの世の父親たちは、この点において大なる失格者となってしまっているのである。
さて次に“敬虔な母親像”とは何か。それは常に我が子と共に身を置き、我が子に寄り添い、いつでもその“心の声”に耳傾け、それを読み取り、絶えず受容し、満たしていく母親であって、特に我が子が病み、傷ついた時など、その苦しみ痛みを自ら吸い取り、身をもって肩代わりしてあげようと思うほど我が子を慈しみ、愛する母親にして、更に我が子の無事と健やかな成長を願って、常に神の加護を祈るような心がけを持つ母親を、“敬虔な母”と呼ぶ。「子に教える前に、子から聞き、子に学べ」とか、「子をしつける前に、子の心を満たせ」という昔からの知恵者の名言があるが、これはまさに真実である。
しかし、今日の多くの母親たちは学識も才能も豊かであるが、これがむしろ災いして、我が子の“心の声”に耳傾けることができず、自らが学び、習得した知識や情報に従って、一早く育児という美名の下で、躾や英才教育に踏み込んでしまう。そこにはすでに“敬虔な母”はおらず、“熱心な教育ママ”がいる。
前者は我が子の“心の声”に耳傾け、我が子の個性や固有の感性を引き出すが、後者は“母親の声”に耳傾けさせ、我が子の個性や固有の感性を無視して、母親の意図する理想の我が子像に向かって、子供を洗脳し始める。これぞ最悪な母である。彼女たちはできるだけ早く乳離れし、母の手を離れる子供こそ、よく自立した良い子と錯覚するが、大切な心まろやかな人間性や豊かな愛に生きる人間としての資質を養い損ねてしまう。
なぜならこの大切な幼児期に自らの内に母親からの豊かな愛による受容と満たしによる“敬虔な母親”体験をすることができなかったからである。とりわけ自己犠牲を甘受してでも我が子のために献げ、仕え、更にはそれでもなお足りなければ神にすがり祈るような子を愛するがゆえの真摯な母親像を体験していなかったからである。
このような“敬虔な母親像”こそ、世界中どこに行っても見出し得ない、自らにとって世界で唯一の実母の内にだけ見出すことのできる“真の母親らしさ”であって、これは如何なる父親にすら肩代わりできない母親ならではの神が与えられた“母の特質”なのである。これこそ母が我が子に与えることのできる唯一にして、世界最大の贈り物である。(続く)
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峯野龍弘(みねの・たつひろ)
1939年横浜市に生れる。日本大学法学部、東京聖書学校卒業後、65年~68年日本基督教団桜ヶ丘教会で牧会、68年淀橋教会に就任、72年より同教会主任牧師をつとめて現在に至る。また、ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会および同教会の各地ブランチ教会を司る主管牧師でもある。
この間、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁(現名誉会長)、東京大聖書展実務委員長、日本福音同盟(JEA)理事長等を歴任。現在、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、日本プロテスタント宣教150周年実行委員長などの任にある。名誉神学博士(米国アズベリー神学校、韓国トーチ・トリニティー神学大学)。
主な著書に、自伝「愛ひとすじに」(いのちのことば社)、「聖なる生涯を慕い求めて―ケズィックとその精神―」(教文館)、「真のキリスト者への道」(いのちのことば社)など。