冒頭で徐氏は2013年一年のそれぞれが捧げる祈りについて「神の国と義をまず求めてください。神様から何かをもらえるから、神様を信じているのではありません。聖書のことがわかってくると、まず求めることが何なのかがわかってきます。経済的祝福、健康など、聖書がわかってくると、そういうものは全部備えられていて(エペソ1・3)、神様がご存知であること、ただ神の義を求めて、信仰で既に備えられているものを受け取れば良いことがわかってきます」と伝えた。
また預言の賜物を持つ徐氏は、預言を受けるときの受け止め方について「聖書的に合っているところ、志、預言、御言葉の3つがそろうように受け止めてください」と促した。
リバイバルについて徐氏は「リバイバルがゴールではありません。経由地であり、経過してはいきますが、そこがゴールではありません。リバイバルの後何が起きるのか、何が近づいているのか、終わりの時(Ⅰペテロ4・7)を知らなければなりません」と説いた。
御子のために造られた世界―罪の解決のために御子が犠牲となられた
徐氏はコロサイ人への手紙1章16-20節から「リバイバルのターゲットは『御子』にあります。御子のための世界に罪がはびこったので、御子御自身が十字架で犠牲となって解決されました。キリストのうちに私たちは世界の基の置かれる前から選ばれ、御前で聖く、傷のない者にしようとされました(エペソ1・4)。旧約聖書では、アブラハムだけが神の友と呼ばれました(イザヤ41・8)。ヤコブはアブラハムのすえであり、アブラハムが中心に書かれています」と説いた。
その上で新約の時代「神の子ども(ヨハネ1・12)」となったクリスチャンに対し、「神様は私たちと友達になりたいと願われています。アダムとイブは、あのままでは神の友達にはなれませんでした。『友』とは、自分がやろうとしていることの中身が分かる人。しもべではわかりません」と説いた。
またイエス・キリストについて「天地創造の前から、私たちはキリストの内に選ばれています。イエス様のためにこの世界が造られ、万物をその足の下に従わせようとされています(ヘブル1~2章、詩篇8・6)」と説いた。神が万物を御子に渡したことについては、ヨハネ福音書3章35節、および13章3節に書かれてあることが指摘された。
さらに、キリストが十字架に架けられ、死者の中からよみがえった出来事を通して「すべての支配、権威、権力、主権の上にキリストの名が高く置かれ、いっさいのものがキリストの足の下に従わせられるようになり、いっさいのものの上に立つキリストが教会に与えられた(エペソ1・20~23)」と説明した。
万物が改まる時、支配権が御子から神の下へ返される
徐氏は聖書で示される預言の究極の目的はリバイバルにあるのではなく、「万物が改まること(使徒3・21)」にあると説いた。万物の支配権について徐氏は「創世記で神は人間に万物の支配権を与えられました(創世記1・28)が、その支配権を人間がサタンに売ってしまいました。そのため世全体が悪い者の支配下に下りました(Ⅰヨハネ5・19)。しかし神様は、人間をサタンと共に滅ぼしたいとは思われず、万物の改まる時を起こそうとされておられます。その時にしっかりとつながることが大事です」と説いた。そのためにも、キリスト者はリバイバルが生じて教会に人が増えた後のことまで考えて行動するべきであると促した。
徐氏は「すべての名の上に高く置かれた(エペソ1・21)ということは、イエスの御名は天のお父様より上であり、その御名が教会に与えられています。イエスの御名が最高の名であると神様はご存知です。その御名を信じられるがゆえに、神ならどんなことでもできるのです。すべてのことは解決できます。イエスの御名によって宣言したことを取り消そうとするならば、同じくイエスの御名によって取り消さなければなりません。その権限を父なる神にお返しになる時代が今の時代であり、支配権を神に返す時がやって来ます(Ⅰコリント15・24)。その時には最後の敵である死をも滅ぼされます(Ⅰコリント15・26)」と説いた。
リバイバルの目的はすべてのものがイエス・キリストに従うこと
そのため信仰生活の焦点は、リバイバルではなく、その目的であるイエス・キリストにすべてのものが従わせられる(ヘブル2・8)ことに置くべきであり、「すべてのものがイエス様の足の下に下るために地の果てまで福音を伝えなければなりません。この権威を知らしめるためにも、私たちがイエス様の前にただ人々を集めるのではなく、ひざまづかせなければなりません。各国の大臣、国家にもイエスの御名が最高であることを伝え、ひざまづかせなければなりません」と説いた。
そのためにもクリスチャンとしての生活が「楽しい」ということを示していくことが必要であり、「福音を信じることで、無料で天国に行くことができます。キリストの恵みの中で、すべての問題が解決されるのに、(それを信じないで)『問題を問題である』と心配してしまうこと自体が問題となってしまいます」と注意を促した。
徐氏は再臨について、「万物が改まる時(使徒3・21)に来られます。その時にはすべてのものがイエス様にひざまづいている、この時が来ることを目的として日々イエス・キリストの証をしていかなければなりません」と勧め、教会の完成(エペソ1・23)、携挙への備えのため、その働きにすべての人がつながっていくように、用いられていくことが大事であると伝えた。