1月2日午後7時30分から5日午前7時30分の60時間にわたって、淀橋教会で第6回新春断食祈祷聖会が行われた。聖会ではリバイバルについて、最初のアメリカ人リバイバリストと呼ばれたチャールズ・フィ二―に関して『リバイバルの鍵-フィニー講演集-』を基に学び、黙想し祈る時間が持たれた。なお同書は現在絶版となっている。
同書の「まえがき」において本郷台キリスト教会牧師の池田博氏は、「日本のように信教の自由があり、長い間伝道されていながら、一向にその成果が現れていない国がほかにあるでしょうか」と問いかけ、その答えとして1.民にその幻がないこと、2.リバイバルへの渇望がないことを挙げている。
同書に収められたフィ二―が1835年米ニューヨークで連続22週にわたって行った講演によって、当時リバイバルが起こされただけではなく、多くの人が覚醒させられ、後に各地でリバイバルが起こるきっかけとして用いられてきた。
リバイバルへの道
聖会1日目の2日の講義では、淀橋教会主管牧師の峯野龍弘氏が同書の第1章「リバイバルとは何か?」について説教を行った。
峯野氏は大学時代にフィ二―の著書を読んで、神の召命を受けている。峯野氏は同書から「魂が高く引き上げられるとき、ひとりひとり、教会に聖霊が著しく臨む時に、リバイバルが起きる」と説いた。
淀橋教会の2013年(平成25年)教会聖句は詩篇126篇3~4節「主よ、わたしたちのために、大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。主よ、ネゲブに川の流れを導くかのようにわたしたちの捕われ人を連れ帰ってください」となっている。
峯野氏は、「とらわれているもの、解き放たなければならないものがないか。本当に癒されなければならない、精神的な、悩ましい、何事かによって、あなたの思いも生活も不自由になってはいないか。ちょっとした人の言葉にとらわれて、今日も明日も恨みをもってその言葉に縛られているとらわれ人になっていないか」と問いかけた。
勝利の祈りとは?
2日の聖会では同教会副牧師の新川代利子氏から第4章「勝利の祈り」について説教が行われた。ヤコブ書5章16節には「義人の祈りは働くと、大きな力がある」とある。
4章からはリバイバルを起こすために真理を用いて「人を動かす」こと、祈りを用いて「神を動かす」ために祈る人がそれにふさわしい情熱を持ち、ふさわしい祈りを捧げることで祝福が得られる事が書かれてある。
実際に求める祝福を獲得し、神を動かす「勝を得る祈り」に不可欠なものとして、1.明確な目標を定める、2.神の御心にかなう祈りを捧げる、3.神の御心に服従する、4.求めるものの重大さにふさわしい願いがある、5.正しい動機を持つ、6.聖霊のとりなしを得る、7.忍耐強い祈りをする、8・多くの祈りをする、9.キリストの名によって行う、10.すべての罪を悔い改めて捨てる、11.信仰によって祈るべきことが同章で挙げられていることの説明がなされた。
信仰の祈りとは?
第5章「信仰の祈り」については、2日目、3日目の聖会で同教会副牧師の市川牧子氏、又吉里子氏から説明がなされた。
同章においては祈りかたを理解するだけではなく、実行すべきこと、「求めるものは、すでに受けたと信じる(マルコ11・24)」ことが、神に対して信頼することであることが説かれている。
他にも「ふたりが心を一つにして祈ること(マタイ18・19)」、「少しも疑わずに、信じて願うこと(ヤコブ5・6)」、自分の感情による祈り(Ⅱコリント12・8-9)は叶えられず、信仰の祈りがその通り聞かれることなどが説かれている。
さらに信仰の祈りを行うキリスト者の姿勢について、1.聖書の約束を握って祈る、2.良い志を大事にする、3.時間・能力・働きにおける全き献身、4.忍耐して祈る、5.日々聖霊に満たされ、神と共に歩むべきであることが説かれている。
祈りの霊
3日目の聖会では第6章「祈りの霊」について同教会副牧師の中村和司氏、新川代利子氏から説教がなされた。
祈りの霊については、同章ではローマ書8章26-27節が引用され、「自分の欲ではなく、祈りに貫かれ、霊に導かれ、真理に御言葉に目を開かせていく。見ているものが現実ではなく、霊の世界が真理である」ことが説かれている。
祈りの霊について中村氏は「鏡を見れば自分が見えるが鏡と写真に写る顔は違う。鏡では、本当の自分の姿がわからないのと同じように、御言葉に委ねなければ、神はわからない。聖書を通して、聖霊によってイエス様に出会うことができる」と説明した。
祈りの霊に導かれることについては、同章から「聖霊が私たちの姿を明らかにして、自らを投げ出させていくだけでなく、主の愛に貫かれ、罪人への熱い祈りに導いていくことができるようにさせられる。罪人への熱い祈りこそ、御霊によるものであり、霊を見分けていくものとなる。(憎む相手を)のろうのではなく、熱い愛をもって祝福を祈るように導かれる。罪人を単に責めるのではなく、イエス様の持っている哀れみと愛をもって、痛みと苦悩を持って祈るように導かれ、そのような『苦悩の祈り』がリバイバルをもたらす」と説明がなされた。同章では、リバイバルはそのような苦悩の祈りを捧げるひとりの義人から生じるものであることが、実例をもって説かれている。
パウロはⅡコリント5章14~17節において「キリストの愛が私たちを駆り立てている」「自分のために死んでよみがえった方のために生きている」こと、自分中心の古い自分が死んで、生きる目的が全く変えられて、主の十字架が土台にあって、自分は死んでいること、生きる目的の源泉が十字架にあることを伝えている。
同章では、同箇所を引用し、「御霊ご自身が主の十字架に導く。本当の私たちの姿が明らかにされていく。十字架にこそ本当の解決がある。神様の全き愛がある」こと、また「完全な愛は恐れを閉め出す(Ⅰヨハネ4・18)」ことが説かれている。
祈りの霊に導かれることは、神の愛が心をとらえることであり、神の御前に人間は無能であることを認め、御前に自分を投げ出していくべきであること、聖霊をもって本当の神の愛の中に自分を投げ出すことが必要である一方、弱い存在である人間が、何かに押さえつけられており、そのような姿勢を取ることが出来ない状態にあることがあるという。
新川氏は祈りの霊に導かれる祈りについて、「聖霊が心の内に住んでいてくださる。神様が私の内にあって生きている。神の霊が導く限り、神様から引き離すものは何もない」と同章に基づいて説明した。
また「父が求める者に聖霊を与える(ルカ11・13)」一方、自分の快楽のための間違った動機(ヤコブ4・3)によって祈るのであれば、断食をもって祈ったとしても、動機が間違っているために、聖霊の働きは得られないことが説かれた。
偽善者の祈りについて、同章では、「自分が他の聖霊に導かれた人のように幸せな気分になりたい。聖霊の働きで喜んで生き生きとしたい」というだけの祈りならば、サタンでさえも幸せな気分になりたいのであり、自分の幸せのみを求めて祈る祈りは動機が間違っていることが説かれている。
新川氏は「聖霊の働きを通して心の中に思い浮かぶことが生じてくる。ひとつのことを祈るとき、得るまで忍耐しなければならない。サタンは私たちの弱いところを攻撃して眠らせる。聖霊の働きをいただいて、目を覚まして祈らなければならない」と促す一方、「ある思いが起こるとき、聖霊が導いて起こしている思いなのか、他の霊が引き起こしている思いなのか注意しなければならない」と注意を促した。(続く)
■ リバイバルとは何か?:(1)(2)