憲法第20条「信教の自由」は守られているか?
日本国憲法第20条では「信教の自由」が保障されており、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と書かれてある。
これに関して陶山氏は「国家や地方自治体によって信教の自由は随所で侵略されて来たが、日本国民の大多数はこれを問題にしないのはなぜであろう。日本人の多くは、宗教音痴なのである。宗教は身内や自分が死ぬ時にお寺に任せれば良いと考える程度で済ませている。無宗教であれば、国が神道形式で儀式をしようが、総理大臣や閣僚、国会議員らが靖国神社公式参拝をしようが、習俗としてこれを容認し、憲法第20条に抵触するとは考えない」と伝え、この様な社会にあっていかに明治学院が開学以来、信教の自由に奮闘してきたかを証しした。
大西氏は今から24年前、昭和天皇の重病の折に、公的行事が中止され、テレビCMがサイレントになり、世間が「自粛」一色になったときに、当時の森井眞学長が白金祭を実施するとの声明を出したことを受け、学長はじめ、個々の教員宅に脅迫がなされた事件があったことを証しし、当時の事件を振り返り改めて「信教の自由、学問の自由」の大切さ、キリスト教を建学の精神とする学校の責務について伝えた。
存続する神格化された天皇の儀式、キリスト教学校はどう受け止めるか?
明治学院では1990年11月12日の平成天皇の「即位の礼」の日を休日とすることなく、平常授業を行っている。当時の明治学院高等学校長津田一路氏は「国の儀式として即位の『礼』という、天皇を神とするような『大嘗祭(おおにえのまつり)』につながる皇室の宗教行事を行うこと、その日を休日とすることに対して、疑義を持たざるを得ません。新天皇の即位は既になされており、日本国憲法にふさわしい式典のあり方があろうかと考えます」と発表していた。
同じキリスト教学校である聖学院では、1989年2月20日、生徒父母に対し2月24日大喪の日を迎えるにあたって「昭和の時代の葬りの時でもあり、昭和の時代を過去へと送る訣別の最後の機会となります。戦争中の苦難と戦後の自由回復の喜びという激動にまき込まれたキリスト教学校として、この時代の終わりを深い感慨をもって迎えております」と発表していた(陶山氏発題より)。
昭和から平成という歴史の転機とキリスト教教育に関して「昭和の時代をかえりみれば、教育機関は、この時特別の反省に迫られるのであります。昭和の時代は日本が戦争と流血とをもって世界史上に台頭した時代であり、敗戦の破滅のあと、経済力をもって世界史上の地位を認められるに至った時代であります。日本のすべての教育機関は、過去に対する深い反省の上に立って、新しい時代への責任をはっきりと自覚せねばならないと思います」と伝え、大喪の日に関しては「全聖学院がそれぞれの礼拝堂または講堂に集まり、神の前に礼拝を守り、大喪にあたって然るべく敬弔の誠をいたし、悲しみの中にあるすべての者に神の御なぐさめを祈り、さらに昭和の時代が史上かつてない流血の時代であったという大きな国民的罪を素直に認め、その罪の悔い改めにふさわしい国際的かつ国内的善行に励む新しい日本の建設へと思いをひとつにする立志の時としいたしたい所存であります」と発表していた。
聖学院では「大喪の日」に神の前に礼拝を守ることについて、「歴史に学ばない者は歴史において過去におかされたあやまちをくり返すとは、先哲の教えであります。将来のために過去をかえりみ、過去をかえりみて将来を思う日としたい。神からの光のもと、教育者としての良心に従って、伝統あるキリスト教学校の使命達成の責任を負う者として、決定いたしました」と伝えていた(陶山氏発題より)。
天皇の死、キリスト教学校はどう捉えたか?
同じくキリスト教学校である立教中学校校長国見登氏およびチャプレンの宮嶋真氏は、1988年12月7日、昭和天皇の死を迎えるにあたって、「一人の人の死を悼むことは人間として当然ですが、そのことが意識的、無意識的に強いられることになると、各人の信教・思想・良心の自由が脅かされ、主権在民の基本が見失われ、民主主義の根幹がゆるがされることになります。天皇の死ということで、それを特別視したり、栄光化することは、天皇の神聖化への道を再び開くことになりかねません。まことの神ではないものを神とするあやまちを犯すことになります」と生徒父母に対して発表していた。
また「天皇の神聖化によって、過去の歴史の中で、日本人ばかりでなく、アジアをはじめ、世界中の何億という人々に、償い得ない多大な犠牲を強いてきました。このあやまちは、二度と繰り返してはならないと思います。天皇の神聖化は、尊いものと卑しい者との差別化を生みだします」と伝え、日本国憲法下で象徴天皇と制定されたにもかかわらず、神聖化して行う天皇の行事を受け入れることをしない旨を明らかにしていた(陶山氏発題より)。
明治学院の戦争責任・戦後責任の告白
明治学院では、1995年6月に当時の学院長中山弘正氏によって、日本国敗戦50周年にあたって、太平洋戦争に加担した罪を告白し、戦後公にしてこなかったことの責任もあわせて告白する文書を発表していた。
同文書では、過去の大戦について「当然諸外国の人々にも及ぶものであり、キリストの愛の名によって建て樹てられていた明治学院も、この日本国の中に在った限り、全くその圏外にいることは出来ませんでした。一般的に私学は、国家権力に対し弱い立場にありました。『キリスト教に基づく教育』を守ってきた輝かしい歴史をもってきましたが、かの侵略戦争に協力するという罪を犯してしまったことは、主イエス・キリストの御前に言い逃れることが出来ない事実であります」と告白されている。
戦時下の指導者たちに対しては、「『石を投げる』資格はむろんないでしょうし、彼等の組織の全体を裁くことが出来るのは、唯、主なる神のみであることは言うまでもありません」とした上で、「1932年の満州事変、1937年の日華事変のあと、政府は1939年の宗教団体法に基づき、41年6月、宗教界を統合し国策に協力せしめるべく日本基督教団を結成させていました。教団『統理』であった冨田満牧師は自らも伊勢神宮に参拝したり、朝鮮のキリスト者を平壌神社に参拝させたりしましたが、このことが朝鮮の多数のキリスト者を殉教に追いやり、戦後も日朝両キリスト者の間にうめがたい深淵を作ってしまったことは否定すべくもありません。1939年、明治学院学院長に就任した矢野貴城氏は、宮城遥拝、靖国神社参拝、御神影の奉戴等々に大変積極的に取り組みました。これらのことに関し、明治学院は今日まで主の前にその罪を公に告白し、侵略された国々の人々に謝罪をしたことがなかったのです」と記している。
また戦時下の日本基督教団の大戦への協力の罪について「『飛べ日本基督教団号』という掛け声のもとで集められた戦闘機献金、また当時の機関紙『教団時報』で『殉国即殉教』が主張され天皇の国家へのキリスト者の無条件の服従が日本基督教団の名によって勧められたとき、冨田氏らもその最高級の責任者でした。当時の全体主義的風潮の厳しさ、またその重圧のもとで『主の器』としての教会組織を守らんとした指導者としての苦心、といった点を考慮したとしても、それらが冒頭に述べた悲惨をもたらした日本の国家的犯罪に組み込まれていた事実は否定すべくもありません」と記している。
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