コーリー氏は東エルサレムで生まれ育ち、祖父がギリシャ正教の聖職者をしていたことから、伝統的なギリシャ正教会の家庭で育てられた。しかし、ギリシャ正教では礼拝は儀式だけで、聖書の話は無く、聖書に何が書いてあるのか全く知らなかったという。しかし、友人に誘われてプロテスタントの伝道集会に出席し、はじめて聖書に沿った自分に対する救いの計画を知り、それから新約聖書を読んで、聖霊に導かれイエス・キリストのために献身する確信に至ったという。
コーリー氏はエルサレムを拠点にベツレヘム聖地ミッション(HLM)を行っており、ベツレヘムに住むアラブ人を中心にキリストの愛を伝えている。HLMは西岸地区でキリスト教共同体の発展、ユースセンター、聖書学校、弟子訓練、食料の配給、支援活動などさまざまなミニストリーを展開している。
日本のクリスチャン達に向けコーリー氏はパレスチナ宣教のための祈りと支援を要請するとともに、いかに信仰を高めることができるかについていくつかのポイントを語った。
コーリー氏によると、パレスチナでは特に旧約聖書について、多くのパレスチナ人が「遠い昔に書かれたユダヤ人に関する書物」であると見なしており、さらにパレスチナとイスラエルの間で長年続いている敵対関係が、旧約聖書をパレスチナ人に受け入れさせるのを難しくさせているという。
パレスチナ人の大多数はイスラム教であるが、カトリック、ギリシャ正教会の人々もごく少数ながら存在している。一方プロテスタントの「新生」クリスチャンは極めて少数となっている。しかし、様々な種類の「キリスト教徒」のほとんどは「ユダヤ人に対する神の約束はもはや無効になった」との立場であり、ユダヤ人は約束の地に住む権利が無いと考えている。そのため、イエスを信じるユダヤ人(メシアニック・ジュー)とは、その点で意見が一致していないという。しかし、コーリー氏はユダヤ人に対する約束はまだ有効だとの立場で、ユダヤ人を愛する必要性を明言する超少数派の牧師となっている。
こうした発言のため、コーリー氏は周囲から民族の裏切者だと見られ、激しい迫害を受けて来た。コーリー氏の周囲のイスラム教徒はキリスト教が「劣等宗教」だと考えており、イスラム教からキリスト教への改宗者は死刑となる状況下に置かれている。そのため、コーリー氏の教会でも公然と礼拝に出席するのは、ギリシャ正教やカトリックの家庭の出身者で、イスラム教からの改宗者は個人的に来て信仰を守っている状態であるという。こうした「隠れ改宗者」は、かなり多いと言われている。
そのような状況にあったとしてもキリストを受け入れることで、パレスチナ人でもユダヤ人を愛することができるようになり、政治的に見るとパレスチナとイスラエルはお互いに愛せない関係ではあるが、「イエス・キリストが命と引き換えにその問題を解決してくださり、イエス・キリストの御前にあって、異邦人もユダヤ人も分け隔てなく接することができるようになる」と述べた。
コーリー氏は、政治的に見れば、イスラエルの政策もパレスチナの政策もそれぞれ間違ったことを行っていると感じているが、クリスチャンとしてパレスチナ人とイスラエル人を政治的な枠組みを超えて霊的な視点で見る必要があると伝えた。そして旧約聖書の創世記において神がアブラハムとの間に永遠の契約を結んだ事実を知ることで、ユダヤ人も、パレスチナ人、中国人も何の違いもなくなり、聖書に従うことで正しい道を歩むことができると述べた。
コーリー氏はパレスチナ人の新生クリスチャンと、日本人の新生クリスチャンの間に橋を架けることを望んでおり、「それは霊において可能であり、日本の皆さんの祈りが必要です」と呼びかけた。
またコーリー氏は、ベツレヘムに生じた二つの奇跡として、一つ目は「2000年前にイエス様がお生まれになったこと」、二つ目は現在の社会において「ベツレヘムでアラブ人によるキリスト教会が建てられていること」であり、ベツレヘムの宣教は「祈りなしには前に進むことはできない」と伝えた。
その後コーリー氏はクリスチャンとしての信仰を高めることについていくつかのポイントを説いた。
~なぜ祈りはすぐに応えられないのか~
祈っているときに、祈りがすぐに応えられないことについて、コーリー氏は「神様は毎日あなたとの親しい交わりの関係を望んでおられます。主はいつも近くにおられます。祈りにあってより近い関係になることを主は望んでおられます。祈るときに、自分がイエス・キリストに対してどのような犠牲を払っているか、自分の国のためにどれだけ祈っているかを点検してみることが必要です」と述べた。
~信仰は望んでいる事柄を保証する~
また信仰を持つことについて、「ヘブル11章6節では 『信仰がなくては、神に喜ばれることはできない』と書かれています。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものである(ヘブル1・1)と書かれてある通り、キリストを信じるとき、信仰によって彼がすべての主であることを信じて、それを受け入れることになります。私たちは十字架刑の現場にいたわけではありません。死から蘇られたときそれを見たわけではありませんが、信仰によって私たちはそれを受け入れています。神様が私たちに与えてくださった霊的な目によって、その御言葉をその通りに受け入れることができます。主を信じ、その御言葉を信じる事が大切です」と述べた。
一方で現代社会では世界中で様々な人間がそれぞれ「自分の神」を信じている状況にあり、福音を伝えるのが難しい環境であるといえることも指摘し、「信仰について多くの人々が議論をしようとしています。信仰によってこのこともあのことも信じるというと、その証明を要求してきます。しかしひとつしか証拠はありません。それは『私を見てくれ』ということです。私が言えることは、『私は失われていたが、今は見つけられている。今救われていることがわかっている。地獄に行くはずであったが、今天国に私の場所がある』ということです」と述べた。
~信仰がなければ神を喜ばせることはできない~
コーリー氏は、「『信仰がなければ神を喜ばせることはできない(ヘブル11・6)』という言葉はとても強い言葉です。(信仰以外の)他の方法では神を喜ばせることはできないということです。神様は信徒として、全能の神に対してそのような強い信仰を持てと命じておられます。彼が創造主であり、王の王であり、主の主であられるお方であり、私たちの光でありいのちです。すべてのためのすべてであられるお方です。ですから私たちは主を信じています。それでもふとするとクリスチャンに対しサタンがやってきて、生ぬるい生活をしてしまうように、神様の約束について疑いを抱かせるようにしようとしてくることがあります。そのような中にあって神様が皆さんの信仰を毎日強めて下さるためにも、祈りが必要になってきます。いつも皆さんを悪魔が襲うとき、信仰が揺すぶられ、信仰はダメだと思わされるようになります。『お前の信仰は働いていない』と言うサタンに向かって、信仰を強めていかなければなりません」と述べた。
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