フィリップ・ヤンシー氏は数々のキリスト教の信仰に関する著書を出版し、同氏の著書は世界で1400万部以上の売り上げを記録してきた。また同氏は穏健派福音主義の雑誌である米「クリスチャニティ・トゥデイ」紙編集顧問を務める他、同社の出版物「ブックス・アンド・カルチャー」の共同編集議長も務めている。
ヤンシー氏は、東日本大震災からちょうど一年が経過した主日に講演を行うにあたって、「毎月超教派一致祈祷会をされていることを伺いました。今もまだ病んでおられる方々のために、祈るということほどすばらしいことはありません」とこれまでの継続的な祈祷会開催を評した。
~神様の御心の中に自分を置くことが大事~
また、祈りについて、「祈りというものは、私の意思で何がしたいかということを神様にお願いするというよりも、神様の御心の中に私をどのように置くことができるかということを知ることのために行うものです。『神様、今日あなたは何をなさるのでしょうか?その働きの中に、私を加えて下さい』という祈りをすることが必要です」と説明した。
未だ苦しみの中にある東北の被災地の人々について、「全世界の目が東北に向けられていると思います。(人は)悩み苦しんでいる方々のために、心の中に特別な場所を持っています。私たちが、悩んでいる方と心を共にしているとき、心は聖なる場所に置かれています。心が痛んでいるときに、神様はどこにおられるでしょうか。私が交通事故に遭ったとき、人生で何が大切かということを真剣に考え、私にとって誰が一番愛している人で、どのような人生を送ってきたかということを深く考えました」と述べた。
東日本大震災という未曽有の大災害が生じたことについてヤンシー氏は、「私たちは不完全な世界に生きています。その中にあって、『神様の御心はどこにあるのか』と神学者たちはさまざまな討論をし合います。その中でひとつ明確なことを挙げるとするならば、神様ご自身は今の世界に満足されていないということです。神様は、不完全な今の世界を完全なものにしようとされておられます」と述べた。
また突然の苦しみが生じることについて、「良い生活をすれば、良いことばかりが自分の人生に送ってくると考えがちですが、イエス様の御言葉を読みますと、それが本当ではないことがわかります。イエス様ご自身が何も悪いことを言われなかったのに、死に直面し、屈辱をお受けになられました。日本語で『受難』という言葉がありますが、その字のとおり、難しいことを受け入れられました。イエス様の生は、色々な意味で、大きな苦しみを受ける生でした。また(旧約聖書の)ヨブという人物を見ても同様のことが言えます」と聖書に書かれている出来事を引用して説明した。
~震災に生き残った私たちに、神様が何を語りかけておられるのか~
未曾有の大震災が日本の東北地方を襲ったことについて、「なぜ大震災が東北地方を襲って他のところではなかったのかの答えはわかりません。しかし重要なことは、神様がこの地震を通して、生き残った人たちに対してどのように感じておられるのだろうかというところにあると思います」と述べた。
東日本大震災後の世界において、クリスチャンがもつべき信仰の焦点について、「小さな文字を拡大鏡で読むとまわりはぼやけて見えます。同じように私自身自分の信仰は、周りのぼやけて見える所ばかりに焦点を置いていたのではないかと思いました。今私たちに必要なことは、神様が与えられた心を、私たちの心の中心部に置くことではないでしょうか。神様は私たちに『苦しみに耐える』信仰を与えて下さっておられます。そして私たちと共に涙を流してくださっておられます。苦しんでいる人と側にいて、共に涙を流すということは、とても大切なことではないでしょうか」と呼びかけた。
さらに福音書の事例を引用し、「イエス様は、ラザロが亡くなったとき、エルサレムに悪いことが起こっていることを見られたとき、そしてイエス様ご自身が死に直面したときに、涙を流されたことが書かれています。『(ゲツセマネの祈りでは)どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたの御心のままを、なさってください』と言われました。私たちと同じように、心配し、怖がっておられる姿がイエス様の中にも見られています。イエス様は、『私はメシアでありスーパーマンだ』とは言われませんでした。『出来ることならば、この杯を取り除いてください』とおっしゃられました。クリスチャンが、誰かが突然に亡くなった時に悲しみ涙を流し、何故でしょうかと疑う時、神様も近くにいてくださっておられます。イエス様もそのように涙されたとき、神様が近くにおられました。苦しんでいる方の側に神様がいてくださいます」と説明した。
~自分の補聴器を神様の補聴器に合わせる~
突然の苦しみの意味について、「不完全な世界で私たちはさまざまな苦しみに遭いますが、そのような出来事を通して、自分の補聴器を神様の補聴器に合わせることを神様は願っておられるのではないでしょうか。(震災を通して、)教会にたくさんの人が集まって来るようになりました。『誰かと共にいたい』、『励まされたい』という思いで人が集まってきました。苦しみに遭うことと、補聴器を合わせて神様の言葉を深く聞くということは、パラドックスのような形をとります」と説明した。
震災を通したクリスチャンの使命について、「クリスチャンは、苦しんでいる人たちを慰めたり、お腹が空いている人を養ったりするように言われています。また聖書には、悩んでいる人、迫害を受けている人、貧しい人は幸いですと書かれています。神様は『悪いことをも良いものに変えて下さる』お方です。どんな災害でも究極的にはリサイクルをされるお方といえるのではないでしょうか。苦しみや痛みを通して、私たちの中に忍耐を生み出し、慰めや同情する気持ちをもたらします。しかし、苦しみの中にある時、私たちは神様に対して、いつも間違った質問をしてしまうのではないでしょうか?生まれながら目の見えない人に直面した時、弟子たちはその人の中にある原因を追及しようとしました。しかしイエス様はそれとは対照的に、私たちがどんなふうに苦しみを判断するかに注目されるお方です。私たちが苦しみに対してどのように反応していくかということが大事です」と述べた。
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