「多神教からの一神教批判に応える――文明の相互理解の指標を求めて」、21世紀COEプログラム公開講演会「一神教と多神教――新たな文明の対話を目指して」(主催:同志社大学 一神教学際研究センター)
【講演要旨】
近年、「一神教と多神教」という対比関係が日本の論壇で頻繁に取り上げられている。最初に、その一部を紹介しながら、こうした問題設定に共通して見られる傾向を批判的に検証したい。これらのメッセージの多くは、多神教の世界貢献といった華々しい表現とは裏腹に、非常に内向きで自己完結的な特徴を有している。一神教か多神教かという二者択一は、先を見通すことのできない世界に住むわれわれに、「わかりやすさ」という快感を与えるかもしれない。しかし、これは逃避的な快感ではないか。果たして、この日本的メッセージは世界に通用するのであろうか。むしろ、こうしたメッセージは誤解・偏見を助長しているのではないか。
宗教学や神学の視点から、一神教と多神教という概念を整理し、一神教と多神教を二元論的な排他関係に置くことがあまり意味を持たないこと、そして、一神教における神理解(唯一神信仰)に対置されるべきは、歴史的には「偶像崇拝」であったことを指摘する。同時に、偶像崇拝が現代世界において持っている新たな次元を示唆する。これは、テロなどの「直接的暴力」を生み出す温床としての「構造的暴力」と深い関わりがある。
また、多神教が日本やアジアにおいて、どのような役割を果たしてきたのかを、神道の例をあげて考察する。神道は、仏教とともに、日本の多神教を代表する存在として言及されるが、他宗教、異文化に対する神道の「寛容」の程度を確認したい。
最後に、現代世界の錯綜する問題を洞察する視点として「一神教と多神教」という問題設定があまり有効でないとすれば、何が見るべき思考軸であるのかを考える。個別宗教・国家の次元で考えれば、それは穏健派(リベラル派)と急進派(原理主義者)との戦い、あるいは、多様性の容認か、一つの強固な価値か、という価値観(世界観)の争いに見ることができる。また文明論的な視点から見るなら、オリエンタリズムとオクシデンタリズムが生み出すイメージのすれ違い、一方向からのイメージの氾濫・増殖の中に問題を指摘することができるだろう。
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1.一神教・多神教をめぐる事例
1)『朝日新聞』記事
・社説「「千と千尋の」精神で――年の初めに考える」2003年1月1日
「文明の対立」が語られている。背景にあるのはイスラム、ユダヤ、キリスト教など、神の絶対性を前提とする一神教の対立だ。(中略)いま世界に必要なのは、すべて森や山には神が宿るという原初的な多神教の思想である。そう唱えているのは、哲学者の梅原猛さんだ。古来、多神教の歴史をもつ日本人は、明治以降、いわば一神教の国をつくろうとして悲劇を招いた。そんな苦い過去も教訓にして、日本こそ新たな「八百万の神」の精神を発揮すべきではないか。
・社説「紀伊山地――多神教を歩こう」2004年7月3日
日本固有の信仰である神道と大陸伝来の仏教、それらが融合した神仏習合、さらに外来の道教をとりいれた修験道が共存するという多神教の世界である。世界を見渡せば、イスラム教とキリスト教の対立など、一神教同士のいがみあいが絶えない。異なる宗教や価値が平和に共存するにはどうしたらいいか。紀伊山地の紹介は、21世紀の世界に日本から発信する貴重なメッセージでもある。
・梅原猛「東アジア文明の語るもの」(シリーズ「反時代的密語」)2004年7月20日
そして一神教は他の一神教と厳しく対峙して無用の戦争を巻き起こし、二十世紀に起こった人間の大量殺戮が二十一世紀にはより大規模に起こる可能性すらある。このような状況において、あえて人類の末永い繁栄のために西の文明の二つの原理である人間中心主義と一神教を批判する必要があろう。(中略)一神教の批判はもっと難しい。なぜなら、多神教は人類の原始時代の妄信にすぎず、一神教こそ真に理性的な宗教であるという通説が今なおあたかも真理であるが如く存在しているからである。私は、多神教は、もともと森に住んでいた人類が森の中のさまざまな生きとし生けるものに人間の力の及ばない霊妙なものをみて、それを崇拝することによって興ったと思う。今もなお自然は人智の及び難い霊性をもつていて、多神教の成立の地盤は決して失われていない。また他者の信じる神を認める多神教は、人類の平和共存を図るためにも一神教よりはるかに有効 な宗教であるように思われる。一神教は、森が破壊されて荒野となった大地に生まれた種族のエゴイズムを神の意志に仮託する甚だ好戦的な宗教ではないか。この一神教の批判あるいは抑制なしには人類の永久の平和は不可能であると私は思う。
2)民主党「憲法提言中間報告」(2004年6月22日)
I. 文明史的転換に対応する創憲を 2.未来を展望し、前に向かって進む
(6月22日発表時の文章)
そして第4に、人間と人間の多様で自由な結びつきを重視し、さまざまなコミュニティの存在に基調を据えた社会は、異質な価値観に対しても開かれた、「寛容な多文化社会」をめざすものでなくてはいけない。これもまた、唯一の正義を振りかざすのではなく、多様性を受容する文化という点においては、日本社会に根付いたな価値観を大いに生かすことができるものである。
(いつの間にか、次のように書き換えられている)
そして第4に、人間と人間の多様で自由な結びつきを重視し、さまざまなコミュニティの存在に基礎を据えた社会は、異質な価値観に対しても開かれた、「寛容な多文化社会」をめざすものでなくてはいけない。これもまた、唯一の正義を振りかざすのではなく、多様性を受容する文化という点においては、進取の気風に満ち、日本社会に根付いた文化融合型の価値観を大 いに生かすことができるものである。
http://www.dpj.or.jp/seisaku/sogo/BOX_SG0058.html
3)書籍
・岩田慶治『カミと神――アニミズム宇宙の旅』講談社、1989年。
アニミズムと一神教の比較論。両者を排他的関係には置いていない。
・梅原猛『森の思想が人類を救う』小学館、1995年。
私は、かつての文明の方向が多神教から一神教への方向であったように、今後の文明の方向は、一神教から多神教への方向であるべきだと思います。狭い地球のなかで諸民族が共存していくには、一神教より多神教のほうがはるかによいのです。(158頁)
・町田宗鳳「述語的論理と21世紀」、河合他編『「あいまい」の知』
主語的論理としての一神教と述語的論理としての多神教を対比させる。しかし、両者は突き詰めていけば、〈絶対矛盾の自己同一的〉に重なり合ってくるという。(135-139頁)
・坂村健『ユビキタス・コンピュータ革命――次世代社会の世界標準』角川書店、2002年。
しかし、それ以上に感心したのは、この言葉(注:Ubiquitous Computing)が「神はどこにでも偏在する」という使い方をされる宗教用語だったということだ。当然キリスト教は一神教の神だから、「同一の神がどこにでもいる」ということであり、ネットワークでつながれた多数の小型コンピュータからなる統合された単一システムがあまねく世界をおおっているという感じを(教養ある欧米人相手なら)うまく伝えるであろう巧みなネーミングであったのである。しかし、その一方で、私のイメージする「どこでもコンピュータ」モデルとは、少し違うのも事実だ。(中略)その意味では私の「ユビキタス」は一神教の神ではなく、あくまでも日本的な八百万の神が「そこにもいて、あそこにもいて、裏のネットワークで話し合っている」というイメージである。そしてこのイメージの方が実現性が高いと思っている。諸般の事情で、残念ながらこれから流行るのはやはり「ユビキタス」という言葉だろう。そういう私自身もはずかしながら使ってはいるのだから、本書の題名もそれにあわせている。しかし、内容はあくまで「八百万のユビキタス」。だからこそ、この分野については日本がリードできるのである。(12-13頁)
・岸田秀、小滝透『アメリカの正義病、イスラムの原理病:一神教の病理を読み解く』春秋社、2002年。
だから、世の中でいちばん迷惑というか害が大きいのは、一神教と一神教との喧嘩ですね。今のキリスト教国のアメリカとイスラム圏との争いというのは、人類の未来にとって非常に危惧すべきことではないかと思います。これはやはり一神教の病理で、はっきり言えば、一神教が人類の諸悪の根元なんで、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、一神教がすべて消滅すればいいんですけれどね(笑い)。(236頁)
・養老孟司『バカの壁』新潮社、2003年。
私の考え方は、簡単に言えば二元論に集約されます。普段の生活では意識されないことですし、新聞やテレビもそういう観点からの議論をしませんが、現代世界の三分の二が一元論者だということは、絶対に注意しなくてはいけない点です。イスラム教、ユダヤ教、キリスト教は、結局、一元論の宗教です。一元論の欠点というものを、世界は、この百五十年で、嫌というほどたたき込まれてきたはずです。だから、二十一世紀こそは、一元論の世界にはならないでほしいのです。(中略)バカの壁というのは、ある種、一元論に起因するという面があるわけです。(中略)一元論と二元論は、宗教でいえば、一神教と多神教の違いになります。(193-195頁)
◎類型的まとめ
1)ユダヤ教・キリスト教・イスラームは一神教であるから、対立・衝突を避けることができない。
2)現代世界の問題は一神教(文明)に帰するところが多く、(日本の)多神教(文明)こそが一神教的思考の限界を乗り越え、問題解決に貢献すべきである。
2. 一神教の中の多神教理解
1)唯一神信仰における「多神教」の位置づけ
「多神教」は「偶像崇拝」の一つとして否定される。神のみを神とすることの帰結。
例:ヘブライ語聖書(旧約聖書)「出エジプト記」20章「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。・・・」
一神教に真に敵対するのは多神教でも無神論でもない。それは「偶像崇拝」である。現代世界において偶像崇拝はどのような形を取っているのか。
(a)「偶像」の意味の射程
人間の願望・欲求によって作られ増殖するモノ・イメージ・シンボル・システム・構造(自己増殖するものを含む)
(b)見えざる「偶像崇拝」への洞察
見えざる偶像崇拝が、しばしば、構造的暴力の温床となる。
※構造的暴力:「ある人に対して影響力が行使された結果、その人が現実に肉体的、精神的に実現し得たものが、その人のもつ潜在的実現可能性を下回った場合、そこには暴力が存在する」(ヨハン・ガルトゥング『構造的暴力と平和』5頁)。
2)一神教における神理解
(a)キリスト教の場合
・唯一なる神:排他的な原理として機能しているわけではない。
例:新約聖書「ローマの信徒への手紙」3:29-30
「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。」
・三位一体論
(b)イスラームの場合
・タウヒード
先行するキリスト教の三位一体論を多神教的であると批判し、タウヒード(一つであること、一体性、神の唯一性)を保持するイスラームこそが、もっとも正しい一神教である、という立場を取る。ムウタズィラ(ムータジラ)学派では、徹底したタウヒードの立場から、多性を示す神の属性をシルク(神が複数であると信じること)として否定する。他方、アシュアリー学派はこれを認める。
3.日本およびアジアにおける多神教の影響
1)今日の大衆文化における多神教・アニミズム的伝統の影響
例:映画「となりのトトロ」「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」
2)日本近代史における神道の影響
大東亜共栄圏における神社参拝の強要と、終戦時における海外神社の壊滅
明治時代から終戦までの神道をめぐる状況
(a)国内の神道
井上順孝「近代神道のシステムと宗教的寛容」、竹内整一、月本昭男編『宗教と寛容――異宗教・異文化間の対話に向けて』大明堂、1993年、125-144頁。
(b )海外(東アジア)の神道
菅浩二『日本統治下の海外神社――朝鮮神宮・台湾神社と祭神』弘文堂、2004年。
3)アジア諸国における多神教の影響
多神教的な社会であるということによって、宗教的寛容や信教の自由が充足しているわけではない。
例:米国・国務省 “The International Religious Freedom Report for 2004”
http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2004/
4.文明の相互理解の指標を求めて
1)宗教学・神学・政治思想の視点から
一神教と多神教 の対立として世界を認識することは、大きな意味を持たない。
それぞれの宗教や国家の中で、穏健派(リベラル派)と急進派(原理主義者)との戦いや、多様性の容認か、一つの強固な価値か、という価値観(世界観)の争いがより大きな思考軸として存在している。こうした相克する価値観にどのような折り合いをつけていくことができるのかが、現実的に問われている。
2)文明論的視点から
精神的・道徳的に没落し危機に瀕している欧米の限界を乗り越えて、新たな価値・思想体系を提供する東洋、アジア、日本という考えは、繰り返し、現れては消え去っていった。
西洋社会が東洋に対し、外部から固定的なイメージを割り当てていたように(オリエンタリズム orientalism)、東洋は西洋社会に対する固定的なイメージ(オクシデンタリズム occidentalism)を増殖させてきた。また歴史的な実像を離れた「表象」によって、外向きの自画像を描こうとする傾向(リバース・オリエンタリズム)もある。
オリエンタリズムの中で、イスラームが西欧からの観察眼によって評価対象にされてきたように、「一神教と多神教」をめぐる通俗的な議論の中では、しばしば「一神教」がオクシデンタリズムの中に配置され、「多神教」がリバース・オリエンタリズムに配置される。日本近代史の中で繰り返し現れてきた、この構造的問題を洞察する必要がある(例:「近代の超克」論、「アジア主義」)。
また、すべての出来事が視覚的なイメージに変換される現代世界においては、あらゆる出来事がインターネットをはじめとするメディアの中で「見せ物」となる。偶像崇拝の禁止が「視覚的なイメージ」の増殖に対し、大きな警戒心を発したことを、われわれは慎重に受けとめる必要があるのではないか。
◇小原克博(こはら かつひろ)=同志社大神学部神学研究科教授、神学博士、日本基督教団 牧師
転載元:http://www.kohara.ac/ (2004/10/30掲載文)