ヨブ記は苦難の書と呼ばれる。ヨブ記が書かれた目的は、「正しい人がなぜ苦しまねばならないのか」「真実の礼拝とは何か」を知らせるためであると言われる。
私はヨブ記1章22節、2章10節、42章10節が好きである。それは主人公ヨブが苦難の中で不平を言わず祈っている姿に励まされるからである。また、自分を正しく理解してくれない友人のために執り成しているヨブに真の祈りを教えられるゆえである。
ヨブは次の点で祝福され幸福であった。
一、子どもに恵まれていた。7人の男子、3人の女子(1章2節)
二、財産。家畜1万1千頭、羊7千、らくだ3千、牛、雌ろば各5百(2章3節)
三、非常に多くの働き人(1章3節)
四、ヨブ自身健康であった。
五、子どもたちは兄弟仲がよく、互いに行き来していた。(1章4節)
六、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。(1章1節)
ヨブ一家が神から祝福されている原因は、ヨブの信仰姿勢にある。ヨブ自ら敬虔な生活をし、子どもとともに敬虔な礼拝をしていたことがうかがわれる。「こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた」(1章5節)。また、ヨブは息子たちがあるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれないと思い、全焼のいけにえをささげた。なんと信仰深い、家族を大切にするヨブであっただろうか。現代は多忙な時代で、夫は家庭を顧みないと言われるが、ヨブから家族一致の祈りを教えられる。
奪われたヨブ
ヨブは神を恐れた潔白で正しい人であったが、サタンの挑戦によって、神のゆるしたもう試練に遭った。愛してやまない十人の子どもと財産を一瞬にして失った。普通の人なら神をのろい、信仰をやめてしまうか、気が狂ってしまう事件である。このような奪われていく中でさえヨブは、神に信頼し、祈ることができた。祝福が増す中ではだれでも感謝し、祈ることができるが、失う中で祈るには、日々の神との交わりが大切である。その時、ヨブは立ち上がり上着を引き裂き(深い悲しみを表す)、頭をそり(哀悼の意を表す)、地にひれ伏して礼拝(絶対服従を表す)した。そして彼は、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。・・・私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」(1章22節、2章10節)と神の絶対主権に対する信仰を言い表した。
私など、十万円ほどお金をだまされて返してもらえないだけでうらみごとを言ったり、シナイ半島旅行中にプレゼントされていたカメラを失っただけで平安を失うような者だ。
解決を得たヨブ
しかし、このようなヨブも、ヨブ記3章を読むと、出生をのろい、生きていることがいやになり、神になぜなぜと疑問を投げかけている箇所が出てくる。ヨブはあまりに苦しさが続くために、友の涙も、慰めのことばも真の解決にはならなかったのである。
私は、なぜすばらしい信仰のヨブがこのような状態になったのか理解に苦しんだ。ヨブは、なぜ自分が苦しんでいるのか理解できないで苦しんでいたのである。
神がヨブに神のみ旨、神のご計画、天上でのサタンとの会議の様子を少しでも知らせてくださったらと人間的に思う。しかし神がヨブの疑問に対して38章から41章にわたって「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。鳥の子が神に向かって鳴き叫び、食物がなくてさまようとき、鳥にえさを備えるのはだれか・・・」と質問する。そしてヨブは、創造主なる神の前に無知、無能、無力な者であることを告白する。神には、すべてができることを、神がどんな計画をも成し遂げられることをヨブは知った。
ヨブは1章、2章にある祝福されたときよりも深く神を体験したときに、自分の病気も苦難の理由も神にゆだねた。
ヨブは友のために祈ることができ、神はヨブを元どおりにし、さらに神はヨブの所有物を2倍に増やされた。また、十人の子どもも与えられ、やがて子どもたちを4代目まで見、長寿をまっとうして死んだ、と42章に記されている。
自分のことばかりでなく、友のために祈ること、これをヨブの祈りから教えられる。人は自分をのろい、親をのろい、友のことばを許せないものである。しかし神の実在、全能の神、神の愛、神のゆるし、執り成してくださる神がわかると、すべてが解決されていくのである。
工藤公敏(くどう・きみとし):1937年、長野県大町市平野口に生まれる。キリスト兄弟団聖書学院、ルサー・ライス大学院日本校卒業。キリスト兄弟団聖書学院元院長。現在、キリスト兄弟団目黒教会牧師、再臨待望同志会会長、目黒区保護司。