本書は、1921年のノーベル物理学賞受賞者であるアルバート・アインシュタインと、心理学者として名高いジグムント・フロイト(表記はいずれも本書による)が、1932年に交わした往復書簡を書籍化したものです。そして後半部に、医師で『バカの壁』の著者である養老孟司氏と、精神科医である斎藤環氏の解説が加えられています。
書簡を交わした発端は、当時の国際連盟(現在の国際連合の前身)から、アシュケナージ(祖国から離散した欧州居住のユダヤ人)であるアインシュタインに対して、「今の文明でもっとも大事だと思える事柄を取り上げ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」という依頼がなされたことにあります。
そこで決めた相手が、同じアシュケナージであり、ドイツ語圏に住むフロイトだったのです。そして選んだテーマが、「ひとはなぜ戦争をするのか」でした。当時アインシュタインは53歳、フロイトは76歳で、世相はナチスの勃興期でした。
本書はまず、アインシュタインの往信書簡を掲載しています。そこには、「心理学に通じていない人でも、人間の心の中にこそ、戦争の問題の解決を阻む障害があると感じ取っています。(中略)あなたなら(中略)政治では手が届かない方法、人の心への教育という方法でアプローチすることもできるのではないでしょうか」と記されています。卓越した心理学者であったフロイトに対する期待が込められているように思えます。
そして、「数世紀ものあいだ、国際平和を実現するために、数多くの人が真剣な努力を傾けてきました。しかし、その真摯(しんし)な努力にもかかわらず、いまだに平和が訪れていません」とし、「ともすれば、こう考えざるを得ません。人間の心自体に問題があるのだ。人間の心のなかに、平和への努力に抗(あらが)う種々の力が働いているのだ」と記しています。アインシュタインは、人間には憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする本能的な欲求が潜んでいるとし、この憎悪と破壊という心の病に対するフロイトの知見を教えてほしいとしているのです。
アインシュタインのこの往信書簡に対して、フロイトはその4倍の分量の返信書簡を送っています。フロイトは、アインシュタインから手紙が送られてきたことに対する喜びから、自身の手紙を書き始めます。そしてその後に、自身が持っている知識をいかんなくしたためています。その知識は、フロイトが強い影響を受けたとされている、旧約聖書から得たものが大きいのではないかと思わされました。
フロイトは、戦争について原始の時代から説き起こします。そして、人と人の争いは、最初は腕力で、次に武器ができるとそれを用いるようになったとしています。これらは、旧約聖書に収められた物語においても如実に現れています。
しかし、社会が発展するに従って、争いの解決が、暴力から法による支配へと変わっていったとしています。けれども、この方向性が押し戻されてしまうことがあり、それが戦争につながっているとしているのです。フロイトはその原因として、人間の本能には保持し統一しようとする欲動(それを「広い意味でのエロス」と表現している)と、破壊し殺害しようとする欲動があるためだと分析しています。
ですから、破壊しようとする欲動が戦火を引き起こすのであれば、その対照にあるエロスを呼び覚ませばよいとしています。そのエロスとは絆であり、それは「愛する者への絆」と「一体感・帰属意識によって生み出される絆」があると分析しています。その絆に立てば、戦争を阻むはずだとしています。これが、アインシュタインの問いに対する、フロイトの答えとなっているように思えます。
フロイトの分析はさらに進みますが、これ以上この場で概説するのは難しいため、関心のある人はぜひ本書を講読していただければと思います。ただフロイトは、全ての人間が平和主義者になり、戦争がなくなるまで、あとどのくらいの時間がかかるかという問いに対しては、「明確な答えを与えることはできません」としています。しかしそれでも、「文化の発展を促せば、戦争の終焉(しゅうえん)へ向けて歩み出すことができる!」と言うことは許されていると思う、と記して手紙を結んでいます。
本書の後半は、前述した2人による解説です。そのうち養老氏は、アインシュタインやフロイト以後の現代社会に起こっている出来事を、「アルゴリズム」という言葉を用いて分析しています。アルゴリズムとは「計算通り」になることだとし、「アルゴリズム的なシステムが優越する社会では、戦争のような『賭け事』に類する行為は嫌われる」としています。ただし、現在においても、戦争のような「やってみなければわからない」という自然発生的な社会システムと、アルゴリズムによる社会システムは拮抗しており、私たちはそういう状況に置かれていると記しています。
これに対し斎藤氏は、フロイトが提唱したさまざまな学説や論理を取り上げ、本書に収録されている返信書簡の内容を浮かび上がらせていています。その中で、フロイトが構築した「破壊し殺害しようとする欲動」という概念は、エロスに対してタナトス(Θάνατος)であると説明しています。
このことは私にとって良い学びでした。タナトスは新約聖書の中にしばしばみられるギリシア語で、日本語訳聖書では「死」と翻訳されています。しかし、フロイトや斎藤氏が伝えているタナトスは、むしろ「死そのものを神格化した死神」ということではないかとも思え、新約聖書が伝える「死」は、そうした概念も包含されているのではないかと考えさせられたのです。
アインシュタインとフロイトという歴史的な偉人の往復書簡と、2人の日本の専門家の解説によって、さまざまなことを得ることができた一冊でした。
■ アインシュタイン、フロイト著『ひとはなぜ戦争をするのか』(講談社 / 講談社学術文庫、2016年6月)
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