第4回ローザンヌ世界宣教会議が22日、韓国・仁川(インチョン)で開幕し、「ソウル宣言」(英語)が発表された。ローザンヌ運動は過去3回の大会で、それぞれの神学的議論の結果を「ローザンヌ誓約」(1974年)、「マニラ宣言」(89年)、「ケープタウン決意表明」(2010年)として集約しており、ソウル宣言はこれらに続くもの。この半世紀にわたって福音派の世界宣教を後押ししてきたローザンヌ運動における4つ目の重要文書だ。
ローザンヌ運動、「ソウル宣言」の同性愛に関する一部表現を修正>>
一方、ソウル宣言は、参加者への情報提供と啓発を目的に、1週間にわたる大会の最終日ではなく初日に発表された。大会前に150人を超える宣教の専門家が協力して編さんした「大宣教命令の現状報告」(英語)と共に、今大会における重要資料に位置付けられる。
ソウル宣言の紹介文(英語)によると、両者とも包括的な傾聴プロセスを通じて作成された。大宣教命令の現状報告は、より戦略的な共同行動が必要な分野に焦点が当てられているのに対し、ソウル宣言は聖書と神学の間にある「ギャップ」に焦点を当てている。
大会ディレクターのデイビッド・ベネット氏は、「ソウル宣言は、ローザンヌ運動における重要な文書の大きなコレクションの一部であり、ローザンヌ誓約、マニラ宣言、ケープタウン決意表明の遺産の上に成り立っています。ソウル宣言は、これらの基本文書に取って代わるものではなく、補完し、現代の神学と宣教の課題に新たな洞察を提供することを目的としています」と述べている。また、ソウル宣言の紹介文は、これら4つの文書は「聖書の信念と価値観の現代的な反映」だとしている。
ソウル宣言は、世界各地の神学者らで構成される「神学作業部会」(TWG)が作成した。スリランカのコロンボ神学校で25年以上校長を務めるアイバー・プーバラン氏と、アメリカ長老教会(PCA)の宣教団体「ミッション・トゥ・ザ・ワールド」(MTW)でサハラ以南アフリカ担当国際ディレクターを務めるビクター・ナカ氏が、共同議長として責任を担った。ナカ氏は、ケープタウン決意表明の起草委員を務めた経験もある。
ソウル宣言は、1)福音、2)聖書、3)教会、4)人間、5)弟子訓練、6)家族としての諸国、7)テクノロジーという7つのテーマを扱っている。ローザンヌ運動は、これら7つのテーマが「神学的、宣教的に混乱している世界に明瞭さをもたらすはずだ」としている。
以下に、本紙によるソウル宣言の日本語訳の抜粋を掲載する。異論の少ないと判断したテーマの章は要約を記し、より現代的で繊細な扱いが必要と判断した課題を含むテーマの章は詳述した。
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前文
前文は、150カ国以上から2700人のキリスト教指導者が集まり、「全教会が全世界に福音を届ける」という共通の使命を確認した1974年の第1回大会から50年が経過したローザンヌ運動を紹介。第4回大会に至るまで、教会は協力して宣教活動を加速させ、未開拓の地域で何百万人もの人々が福音を受け入れ、信仰の力によって変革を体験したことを評価している。その一方で、福音が届いていない数十億人に対する宣教の緊急性は変わらないことを確認している。
その上で、今大会では伝道だけでなく、新しく信者となった人々のキリストの弟子としての成長を促進することの重要性が強調されていると説明する。
マタイの福音書28章18~20節で示されたイエスの命令は、「あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授けなさい」という伝道の使命と、「すべてのことを守るよう教えなさい」という教育の使命を両立させるものだ。これまでの宣教活動で多くの人々が救いを受け入れた一方、教会は新しい信者らに十分な教えを提供できず、深い聖書理解や革新的なキリストの弟子としての成長が不足しているという課題がある。これにより、偽りの教えや、見せかけのキリスト者としての生き方が増え、教会の一致と信仰が脅かされているとしている。
第4回大会で発表されたソウル宣言は、過去のローザンヌ文書、特にローザンヌ誓約やケープタウン決意表明に基づき、福音の中心性と聖書の忠実な解釈の重要性を再確認している。これにより、現代の教会が直面する課題に対応し、次世代のために一致してキリストの証しを立て続けるための基盤が強化されることが期待されるとしている。
1章 福音―私たちが生き、語る物語
1章の「福音」は、神による世界と人類の創造、特に神が人を男と女に創造されたことを明示している。人が神からの独立を求めるなら、その帰結は死であると神が警告したこと、それにもかかわらず、アダムとイブはサタンの背きに加わり、罪と死が世界に入ったこと、その結果、人類は地球を暴力で満たし、創造の目的であった一致を破壊し、無意味な存在となったことを伝える。
しかし、神は慈悲と愛に富んでおられ、人類を放ってはおかれなかった。公正な神として、背きを罰せずにおくこともできない神は、救い主を通して人類を救い、礼拝において一致した全ての人々から成る一つの聖なる民として回復するという計画を実行した。神はイスラエルの民を選び、奴隷の状態から開放し、契約を与え、預言者を遣わし、神の正当な統治の回復を伝えた。そして、約束された通り、イエス・キリストがこの地に来た。
「イエスは病人を癒やし、汚れた者を清め、死人をよみがえらせ、滅びる者を救い、悪霊を追い出しました。これら全ての方法で、イエスは人々に祝福を回復する力を示しました。罪から清められ、死から救われ、サタンの支配から解放された人々です。イエスは、貧しい人々や心の謙虚な人々に神の祝福を新たにする時が来たと宣言しました。イエスが宣言した祝福は富や健康ではなく、新しい創造の変革力としての神自身の命でした。救い主イエスが教会を建てる時が来たのです。しかし、そのためにはイエスの自発的な犠牲の死が必要でした。それは、人類と神との間に立ちはだかる罪の違反が、全ての人に死をもたらしたからです」
「イエスはポンテオ・ピラトの下で十字架にかけられたとき、私たちの身代わりとして、神が遣わした新しい創造のアダムとして亡くなりました。キリストにおいて、神は私たちの罪の罰を自ら引き受けられました。自らに命を持つ方が、世の命のために命をささげました。イエスは罪を宣告され、贖(あがな)われた民は解放されました。罪の奴隷状態から解放され、主を愛し、仕えるようになったのです。キリストは死において命をささげられましたが、死によって打ち負かされることはありませんでした。神は彼を復活させ、彼が無実で正しいことを証明しました」
キリストにある者が神の御霊を通して神の言葉によって形作られた神の新しい創造物に属することを説明し、1章は終わる。
2章 聖書―私たちが読み、従う聖典
2章の「聖書」は、聖書が人の言葉で書かれた神の言葉であり、神の自己啓示であり、教会の聖典であり、権威があり、誤りがなく、完全に真実で信頼でき、教会生活の最高の規範であることを確認している。聖書の中心的なメッセージは神の王国の良き知らせであり、聖書の目的はキリストの弟子の育成と教会を建て上げることにある。聖書を読むときは文脈に注意し、聖霊の導きを受け、伝統を守りつつ、地域の状況に配慮して読むよう呼びかけている。また、地域教会が聖書の公の朗読に専念し、個人、グループ、礼拝共同体として、忠実な聖書の読者と聴者を育成するよう呼びかけている。
3章 教会―私たちが愛し、立て上げる神の民
3章の「教会」は、これまで教会論があまり注目されず、「教会とは何か、教会がキリスト者の生活において重要なのか、教会が私たちの世界とどのような関連があるのか、についてのコンセンサスがほとんどない」ことに目を向け、この結果生じた混乱により福音の価値を歪曲する異常な形態の教会が生まれたとしている。その上で、複数の定義で教会について述べ、教会とは、神の民の交わりの場であり、一つであり、聖であり、公同であり、使徒的であるとしている。
また、教会は迫害やこの世の試練など、外から来る危機に直面する。「教会は殉教者の血の上に築かれています。それでも、教会の闘いは血肉に対するものではなく、闇の力に対するものです。悪魔はキリストの教会に対して陰謀を企てていますが、イエスが約束されたように、イエスは教会を建て続け、ハデスの門でさえそれに打ち勝つことはできません」
一方、教会が常にこの召命に忠実であったわけではないことも記している。「教会はあまりにも頻繁に、政治権力、文化的承認、そして世俗的な快楽の誘惑に屈し、世俗における神の預言的証人となる使命を放棄してきました。そのような場合、教会は抑圧の道具となり、不正行為に加担し、世俗における信頼を失います。これらの妥協は、教会が聖書を歪曲して単なる世俗的な欲望を満たすことによって聖書の権威から遠ざかることの結果であり、原因です」。そして、失敗と罪を嘆き、悲しみ、悔い改めを宣言している。
また、教会は礼拝のために集まるにつれ成長するものであり、キリストを多様かつ忠実な方法で示すものであり、教会の使命はキリストの弟子を育てることだとしている。「神は、御言葉と聖霊の力によって、私たちを聖なる民として世に送り出し、見守る世の人々の前で福音を証しさせます」
神は教会のメンバーに伝道の力を与えるために聖霊を注ぎ、教会は神の言葉と聖霊を通して、福音による神の救いの力を示し、キリストが知られていないところに福音を宣(の)べ伝えるために使者を送る。キリストが再臨される最後の日まで、教会はキリストの花嫁として、花婿であるキリストの帰還を待ち望み、最後の日には過去の世代の聖徒たちも復活するとしている。
4章 人間―創造され回復される神のかたち
4章の「人間」は、「人間であることの意味とは何か」という問いに、正面から向き合うものになっている。この問いへの答えは、世界における私たちの証しと教会生活に深い意味を持つ。人は神のかたちに創造された。これは、人が性別、民族、人種、社会階層、年齢、身体的・精神的能力、社会経済的・文化的文脈にかかわらず、生まれながらに尊厳を持ち、平等であり、価値を持つことを意味する。人間は肉体と精神が一体となった存在であり、「それ故、私たちは、肉体、精神のうちどちらかを優位に扱うことを拒絶します」としている。
「人間とは何か」という問いには、「罪とは何か」という問いが含まれる。人が神のかたちをどの程度反映できるかに、罪は影響を与える。「罪は人間本来の性質や能力、他者との関係、そしてこの世における人間の使命を腐敗させます。罪は人間に悪影響を及ぼし、他者を本来の価値を持つ人間としてではなく、物として扱わせます。時には、キリスト者でさえも、利己心から神のかたちを罪深く誤解し、他者を疎外し、非人間化してきました」。しかし、その神のかたちは、キリストによって回復される。
性的アイデンティティーをキリスト者としてどう理解するか。この問題も「人間とは何か」という問いに対する答えに大きく左右される。4章は「神のかたちと人間の性」という独立した項目を置いて、この問題を詳述している。
まず、前提として「性」と「ジェンダー」の定義については、「聖書の創造の記述では、人は男(male)と女(female)という明確に識別できる身体的特徴と、男(man)と女(woman)という関係的特徴を持つ性的存在として創造されたとされています。個人の『性』は男と女を区別する生物学的特徴を指し、『ジェンダー』は男または女であることに伴う心理的、社会的、文化的関連を指します」としている。
その上で、「私たちは、性のいかなる歪みについても嘆きます。私たちは、神によって創造された本質(createdness)を無視して、人が自らの性別を決定できるという考えを拒否します。生物学的な性とジェンダーは区別できますが、切り離すことはできません。男らしさや女らしさは、人の創造された本質における本来的な事実です。この事実によって、それぞれの文化は男女を区別します。私たちはまた、ジェンダーの流動性(状況や経験に応じて、ジェンダーアイデンティティーまたはジェンダー表現は変動するという主張)という考えを拒否します」としている。
出生時に性別がはっきりと分からない人々(インターセックス)に関しては、歴史を通じて重大な心理的および社会的課題に直面してきたとしつつ、「聖書の中で、神は疎外と苦痛を経験する宦官(かんがん)に深い関心を示し、神を信頼する人々にはより良い未来を用意し、尊厳の回復を約束しています」とし、同様の状況に直面している人々に対して、思いやりと敬意を持って対応するよう求めている。
結婚については、男と女の間の唯一かつ排他的、契約的な関係であり、性交渉の唯一の正当な状況は契約的な結婚であるとし、聖書によれば結婚の範囲外での性行為は、創造主の設計と意図に反する罪深い行為であるとしている。
その上で、「私たちは、教会が同性間のパートナーシップを聖書的に有効な結婚と定義しようとする全ての試みを嘆きます。一部のキリスト教の教派や地域教会が文化の要求に従い、そのような関係を結婚として神聖なものだと主張していることを深く悲しみます」としている。
結婚は、子や養子を養育するために必要な環境を提供し、創造主の生殖の使命を果たし、夫婦に友情と喜びを与えるためのものである。故に性的自由の追求が個人的かつ社会的に良いことだと考えられ、夫婦間の性行為の生殖的側面が軽視され、その結果、子どもの価値が軽視され、世界中で中絶が急増していることに悲しみを表明している。
キリスト者の結婚は、キリストと教会の関係を模しており、夫と妻がイエス・キリストの支配の下で弟子として互いの責任を果たすことで、福音の実現を証しするユニークな手段となる。しかし、独身の状態と既婚の状態の間には優劣はなく、独身者には既婚者にはできない方法で神の国の大義に奉仕する機会があることを、使徒パウロは肯定的に述べている。4章は地域教会に、独身者と既婚者の両者を教え、励ますよう呼びかけている。
最後に、「同性間の性的関係に関するキリスト教の理解」と題された小項目では、「同性間の性的な親密さは人類文明と同じくらい古い現象であり、聖書は旧約聖書と新約聖書の両方でそのような習慣を認識している」と指摘。同性間の性行為について、創世記19章1~3節、レビ記18章20節、同20章13節、ローマ人への手紙1章24~27節、コリント人への手紙第一6章9~11節、テモテへの手紙第一1章9~11節の6カ所を挙げ、「今日の社会と教会にとってこの主題が極めて重要である」としている。
創世記19章1~3節は、アブラハムとその家族の生活が、神がひどく邪悪であると宣言したソドムの文化と交差する場面で、同性間の性行為について言及している。ソドムの悪名は、さまざまな形の社会的悪によるもので、町の道徳的状態の悪さを示す証拠として、町のあらゆる男たちがロトの客を強姦(ごうかん)しようとしたことが取り上げられている。
新約聖書では、ローマ人への手紙第1章18~27節、コリント人への手紙第一6章9~11節、テモテへの手紙第一1章9~11節に、ギリシャとローマの文化的背景上、同性間の性行為が当時はよく知られた習慣であり、特に社会の上層階級では正常とされていたことが記されている。
その上で4章は、「この文脈で、パウロが同性間の性行為を、不品行や姦淫(かんいん)と同じ性的な罪のカテゴリーに分類し、盗み、貪欲、酩酊、中傷、詐取を含むより広範な罪の目録の中に位置付けていることは印象的です。テモテへの手紙第一1章9~11節で、同性間の性行為を禁じている目録には、父殺し、殺人、不品行、奴隷売買、偽証が含まれています。そのようなことをする人は皆、不法な者、不従順な者、不敬虔な者、罪深い者、汚れた者、俗悪な者と呼ばれます」と記している。
「コリント人への手紙第一6章9節で、パウロはレビ記18章20節と20章13節の2つの記述から、男同士の性行為を表す造語を作り出しました。これらの聖句は、神との契約を交わしたイスラエル人にとって、同性同士の性行為は神の基準に違反すると述べています」
「パウロがローマ人への手紙1章24~27節で同性間の性行為について言及する際、彼は神に対する人類の反逆が神の創造秩序の拒絶につながったことを表現しています。人類の完全な道徳的破綻の兆候として、彼は偶像崇拝と性的不道徳のまん延を挙げています。性的不道徳に関して、パウロは特に女性同士の性行為と男性同士の性行為を非難しています。これらは当時の洗練された文化と考えられていたものの中では、明らかによく知られた行為でした」
このような聖書解釈を前提とした上で、4章は「聖書における同性間の性行為に関する全ての記述は、神がそのような行為を、性行為に対する神の意図に反し、創造主の善き計画を歪曲するものであり、従って罪深いものと見なしているという避けられない結論に私たちを導きます。しかし福音は、無知によって、あるいは故意に誘惑に負けて罪を犯した人々は、告白、悔い改め、キリストへの信頼を通して赦(ゆる)しと神との交わりの回復を見いだすであろうと私たちに保証しています」としている。
「教会内外を問わず、多くの人が同性に引かれること、そして一部の人にとってはこれが唯一の、あるいは支配的な魅力であることを認識します。キリスト者は誘惑に抵抗し、欲望と行動の両方において、性的な清さを維持しなければならないという聖書の要求は、異性に引かれる個人にも、同性に引かれる個人にも等しく当てはまります。しかし、同性に引かれるキリスト者は、キリスト教コミュニティー内にあっても困難に直面することを私たちは認識します。私たちは、キリストの体である兄弟姉妹に対する愛の欠如を悔い改めます。」
その上で4章は、キリスト教指導者と地域教会に対し、同性に引かれる経験をする信者がいることを認識し、牧会的なケアと愛と友情の健全なコミュニティーの構築によって、彼らのキリストの弟子としての歩みを支援するよう強く求めている。
第5章 弟子訓練―きよめと宣教への召命
5章の「弟子訓練」では、「未伝民族グループへの伝道」と「社会的責任」の両方を「統合的宣教」の名において過去半世紀にわたって推進してきたにもかかわらず、ローザンヌ運動が「弟子を作りなさい」という主の命令を完全に統合できていなかったことを認めている。
その結果、キリスト者を自称しつつも、「主が私たちに与えてくださった聖なる生活様式に従って生きること、そして他の人々にもそうするように教えることを怠って」「財政上の不正管理、性的不品行や虐待、指導者間の権力の乱用、これらの失敗を隠蔽(いんぺい)する一方で、それによって苦しんだ人々の痛みを無視すること、世界中の福音派の教会における霊的虚弱と未熟さを露呈するような報告が続いてしまった」とし、悔い改めを呼びかけている。
第6章 家族としての諸国―私たちが向き合い、平和のために仕えるべき、紛争の中に置かれた人々
6章の「家族としての諸国」では、国家の統治者が迫害や紛争をやめ、福音が伝わることを妨ぐものがなくなるように祈ると記している。
ロシア・ウクライナ間の戦争、ガザでの戦争がメディアの注目を集める影で、シリア、ミャンマー、スーダン、エチオピアなどにおける深刻な紛争は、ほとんど取り上げられていない。また、1953年の停戦からいまだに解決を見ない朝鮮半島における戦争を「忘れられた戦争」と呼び、北朝鮮で再び、イエス・キリストの福音が妨害や恐れなく大胆に宣べ伝えられ、示され、半島全体が主を知ることができるように祈るよう呼びかけている。
また、聖書の人々(イスラエル人、エジプト人、シリア人など)が、名前、歴史、地理、祖先によって現代の国家(イスラエル、エジプト、シリアなど)や、これらの国家の政治的主権下で暮らす人々(ユダヤ人、パレスチナ人、アラブ人、コプト教徒、ドルーズ派、アルメニア人、クルド人など)と結び付けられている場合、キリスト者が聖書の人々について明確に考えることは極めて重要だとしている。
神は、ユダヤ人と異邦人の両者を含むこれら全ての人々に対する約束を、救い主イエス・キリストの福音を通して果たしている。それ故、「中東やその他の地域では、キリスト教指導者は、罪のない民間人に対する不当な暴力をイデオロギー的に正当化したり、国際人道法違反を正当化しようとしたりする神学上の誤りを正すよう努めなければなりません」と呼びかけている。
「キリスト者の中に、世界に対する神の意図を実現するための主要な手段として、福音ではなく国家に頼る人々がいることを、私たちは嘆かわしく思います。これは、ナショナリズム(全ての国家は唯一の国民文化を持つべきであり、他の文化を持つべきではないという信念)や民族国家主義(全ての民族グループは独自の国家を持つべきであるという信念)と結び付いたときに、特に残念な形を取ります。これは私たちの世界における大きな悪です」
6章は、いかなる現代国家も神の救済の支配の特別な代理人であると主張できず、今後も主張できないとしている。
第7章 テクノロジー―私たちが見極め、管理すべき、加速するイノベーション
7章の「テクノロジー」は、遺伝子工学、クローン、バイオテクノロジー、マインドアップロード、デジタルメディア、バーチャルリアリティー(VR)、人工知能(AI)などの分野について、これらの倫理的影響を識別するための聖書の知識の不可欠さを強調しつつ、教会に対し、伝道と弟子訓練を加速するために必要なテクノロジーを用いるよう呼びかけている。
多くの若いキリスト者が、特にSNSやデジタルメディアに依存しており、これらのテクノロジーが伝道や教会成長のために採用されることはあっても、弟子訓練のために用いられる取り組みは遅れている。7章は、キリストの弟子育成のためにデジタルテクノロジーを用い、健全な使用習慣を形成するよう呼びかけている。
遺伝子治療と遺伝子の改変に関しては、治療の有用性についての可能性を認めつつ、遺伝子の改変が神の主権への服従を逸脱することに懸念を示している。AIに関しては、キリスト者が安全で公平で尊厳のあるAIアプリケーションを促進することによって、創造主と人間の創造をたたえるようなAI技術の開発と使用の両方に従事するよう呼びかけている。その他、ますます進歩していくテクノロジーについて、総じて伝道を推進するために用い、管理するよう呼びかけている。
結論
結論では、「神は福音を通して、教会を建て、全ての人々から成り、キリストにおいて神と互いに和解した、一つの聖なる民を形成するという神の目的を成し遂げておられます」とし、「キリストの死と復活という福音で最高潮に達する物語の中で人生を生き、全ての人が、主が全ての人の主であることを知ることができるように自身の命をささげるよう主が呼びかけている」としている。その上で、「神よ、父と子と聖霊の御名によって、私たちを助けてください」と結んでいる。
ソウル宣言の全文は、原文の英語のほか、中国語、フランス語、韓国語、ポルトガル語、ロシア語、スペイン語の6言語に翻訳され、ローザンヌ運動の公式サイトで公開されている。